世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2011年5月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
敵の功績を認めることより大きな利益を私は名づけ得ないだろう
――『ゲーテ格言集』より
ゲーテがこの言葉を発した頃、ヨーロッパでは決闘が許されていた。自分や家族が侮辱を受ければ、命を賭して闘う。現在の道徳観からすれば荒っぽい行為ではあろうが、そうした場を乗り越えていくことも男のたしなみのひとつだった。仕事上の敵であったとしても、対抗心がエスカレートしていけば、いつ決闘に転じるかわからない。敵、とはありふれた文字だが、私たちが思うところよりもっと切実で、もっと奥の深い存在だったのかもしれない。安っぽい相手には間違っても使いたくない呼称、それが敵だったのだ。
ゲーテが言う敵の功績とは、その相手の価値、その存在の大きさである。闘いに憎しみが伴うにしろ、これを受け入れられるかどうか、尊べるかどうかが、ひいては自身の価値にもかかわってくる。
これは、敵をライバルという言葉に置き換えてみれば、わかりやすい話になる。双方が敬意をもって闘えるのなら、力が似通っているのだ。全身全霊で奮闘しても、勝負の行方がわからない相手だからこそライバルになり得る。
つまり、自己の最大限の可能性が投射された相手がライバルなのであり、それは姿形を変えたもう一人の自分でもある。相手に尊敬の念を抱けなければ、自身の行く末を否定しているのと同じことなのだ。
したがって、簡単に勝てる相手とは組み合ってはいけない。勝利が確実であろうと、これほど無粋なことはない。ロマンに欠けるだけではなく、利益ももたらさない。また、粉砕されることが目に見えている相手に飛びかかっていくのも避けた方がいい。それはロマンではなく、自棄だからだ。少なくとも互角の勝負に持ち込めるよう、自身を鍛え上げるべきだ。ケンカはそれからだ。
では、お前にはライバルはいるのか? 自分にそう問うてみると、私の場合、頭の上がらない人が多過ぎて、本を読んでも、音楽を聴いても、誰を見ても、ただただ嘆息が漏れるばかりである。
今だって、機敏な一匹の蠅に翻弄されながらこの文を書いている。彼を生み出した大自然に心底ひれ伏している。私が勝てないこの蠅を誕生させるために、地球はどれだけの歳月を費やしたのか? こうして一匹の蠅を尊べば、想像だけはジュラ紀にまで広がっていく。私はそこで遊ばせてもらう。
――雑誌『ゲーテ』2009年8月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。'15年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。