世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2010年9月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
万事は享楽というよりは骨折りであり心労である。私を内奥から改造する再生の働きは、絶えず私に作用している
――『イタリア紀行』より
外国語をひとつ自由に話せるようになればその人の人生はなにか少し変わるだろう。家や車のような所有物も、得る前と得たあとではなにかが変わるはずだ。恋人を得た男はどうだろう。彼にとっては世界が変わる。すなわち彼も変わる。ならば夢や希望、そして愛はどうだろう。具体的なものではないだけにそれぞれの解釈があろうが、本人がそれを得たと確信したなら、それこそもっとも大きな変化が起きるのではないか。
なにかを得るとは、そのことによって変わることなのだ。そしてそれは同時に、失うことでもある。失うことを拒めば、得ることもまたないだろう。
今日なにかを得るなら、昨日までの自分はそこにはいない。ところが私たちはそれに気付かず、記憶や手触り、自分の立ち位置をいつまでも保持しようとする。昨日なにかをして成功したなら、今日はもう同じ方法ではそれが得られないとわかっているのに、なぜかそこで思考は停止し、いつまでもそのやり方にこだわったりする。結果、失うのが恐くて沈んでいくのである。
国立ハンセン病資料館の長い廊下を歩いていて、手の自由を失いつつも陶芸家として生きた人たちの記録の前でしばし立ち尽くしていた。山のように積まれた陶器のかけら、そこには表示板があり、闘病を経た一人の陶芸家の言葉が刻まれていた。
「納得するものができあがるまで、作っては壊す。作っては壊す。これしかないのです」
再生とは破壊であり、失う痛みであり、堪え難い忘却でもある。
だが、変わろうとするその先のイメージには、私たちに活力を与える速度が内包されている。伝統ですら、実はこうして日々生まれ変わっている。
再生を必要とする季節に差しかかったと思うのなら、なにを得るかということと同じだけ、なにを捨てるかということも考えた方がいいだろう。いちいち意識せずとも、空気を吐き切ればまた新しい空気が肺に満ちる。捨てること、失うことで、新しい日々は自然と始まる。
――雑誌『ゲーテ』2010年9月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。'15年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。