松山英樹のマスターズ優勝という歴史的なシーンをカメラに収めた数少ない日本人カメラマンのひとり、宮本卓。ゴルフに魅了され、カメラ片手に駆け回ったその半生を振り返る。
マスターズの連続撮影世界記録保持者
ゴルフ通なら聞いたことがあるだろう、宮本卓という名前。彼はいわゆるスポーツカメラマンとは一線を画すゴルフカメラマンで、自らを“旅する写心家”と表現する。世界中を旅し、ゴルフの魅力を発信し続けてきた宮本とゴルフの出合い。そこにはふたりのカメラマンの存在があった。
「大学生の頃に雑誌『ナンバー』が創刊され、その第1特集がニール・ライファーというスポーツカメラマン。スポーツ写真を撮る専門家がいることの驚きと、彼の写真への驚きがスポーツ写真の捉え方を変えました」
学生時代は音楽に没頭し、腕前も相当なものだったがプロの道は諦め、それでも音楽に関わるために舞台写真などを撮る仕事をしていた。そんな時に目にしたライファーの写真は、宮本にとってアートだった。
「スポーツ写真というのは新聞なんかで見る記録的なものだと思っていたし、そういうものしか見たことがなかった。でも彼の写真はそれとは別物。スポーツってすごいなと感動しました」
もうひとりは立木義浩。篠山紀信とともに日本のカメラ界に革命を起こした立木がゴルフを撮り始めたのが’70年代後半から’80年代前半の頃。ある連載ページに掲載された、選手ではないギャラリーの熱狂やその空気感を表現した写真に引きこまれた。
「青木さんやジャンボ(尾崎)さんの写真ももちろん素晴らしかったんですが、オフショットというかイメージカットというか、その世界観が面白かった」
徐々にスポーツ写真に、そしてゴルフに興味を持ち始めた時に青木功がハワイアンオープンで日本人として初めてPGAツアーで優勝。転機が訪れた。その時の新聞に載っていた“ゴルフカメラマン募集”の求人広告に応募し、ゴルフカメラマンとしての道がスタートした。
「ただ、そんな簡単にメジャーを撮りに行かせてもらえるわけもなく。悶々としている時に米国の友人から、まずはチケットを買って入ってみたらと言われて、それが’87年の忘れもしない初めてのマスターズでした」
マスターズでの撮影は34回連続で世界最多
マスターズ撮影の34回目が松山英樹の優勝だったが、’87年の悔しさがすべての始まりだった。
「マスターズの現場にはライファーや立木さんの写真に通じる素材がありました。それなのに僕は撮影できない……、こんな悔しい思いってあるんだなって。もう決意しかありませんでしたね。この試合の写真を絶対に撮れるようになろうと」
この出来事をきっかけに宮本は本格的に米国に軸足をシフト。’88年にはPGAツアーに挑戦する中嶋常幸に同行し、ツアーを転戦するなど、海外トーナメントを追いかけた。ちょうどその頃に始まったのがコースランキングベスト100という海外雑誌の企画で、世界にはこんなコースがあるんだと興味が湧いた。飽き性を自覚していた宮本は、試合とコースの両方を撮っていけば飽きないんじゃないかと感じ、ますますゴルフの世界に入りこんでいく。宮本は会ったこともないゴルフ場の担当者に手紙を送り、コースを撮らせてほしいと伝えた。メールもスマホもない時代。手間に思える手紙のやりとりも、そう感じなかったのは夢中だったからだと振り返る。人は夢中になることで想像もしないパワーを得られる。
「知らないでゴルフの世界に入って、ゴルフがこんなに魅力的なものだとは思ってもいませんでした。実際にプレーして、旅をしてどんどん深みにハマっていった。ゴルフは奥深くて、贅沢なスポーツだと思います」
宮本はゴルフ自体に旅の要素が詰まっていると言う。約4時間のプレーのなかで実際にスイングするのは一瞬で全体の5%に満たない。言い換えれば、考えたり、景色を見たり感じたりする時間が多いということ。花や海が綺麗だったり、傾斜を上ったり、下ったり、スコアがいい時もあれば悪い時もある。だからゴルフも人生も抑揚があったほうが楽しい。ゴルフは人生と似ているとよく言われるが、それを楽しめるかどうかは自分しだい。宮本は心から人生を楽しみ、ゴルフを楽しんでいる。
今回取材でお邪魔したのは神戸の自宅。海外を拠点に活動したのち東京に戻り、今年から神戸に移り住んだ。日本ゴルフの原点の地に導かれるかのようにしてたどりついた。世界のゴルフを見てきた宮本。今度は日本のゴルフの美しさを伝えようとしている。宮本の旅はまだまだ終わらない。
Taku Miyamoto
1957年和歌山県生まれ。マスターズでの取材は34回連続で世界最多。コースが持つ誰も知らない顔を写しだすゴルフ場の写真は今や代名詞となっている。