「肉体の一部で精神の一部。自分と一体化した楽器」
「僕はコイツと一緒にプロになる」
ベーシストで音楽プロデューサーの亀田誠治氏は、20歳の時に渋谷の楽器店で1966年製の中古のフェンダーのジャズベースに出合い、ひと目惚れした。
価格は36万円。学生がキャッシュで払える額ではない。店から父親に電話をしたが、ローンの保証人になるのは断られた。
「息子をミュージシャンにさせるつもりはありません」
父親は店のスタッフにも言った。亀田氏はあきらめきれず、3日間かけて具体的な返済計画を作る。父親を説得し続け、2年間24回払いのローンを組んだ。
「あれから35年以上、僕はこのフェンダーとやってきました。椎名林檎さんやDo As Infinityのアルバムも、平井 堅さんの『瞳をとじて』も、JUJUさんの『やさしさで溢れるように』も……。僕が深くかかわった音楽の演奏はすべてこのフェンダーです」
音楽家としての勝負の局面には常にフェンダーがあったのだ。
フェンダーと就寝して朝晩2時間の自主特訓
「楽器と一体化するため、大学にも抱えて通い、電車の中で、空き教室で、それこそ朝から夜まで弾いていました。今思うと、かなり変なやつですよね」
卒業後プロに。キャリアを重ねるとともに、フェンダーとの関係も深まっていく。
「ドラマーの山木秀夫さんや青山 純さんなど一流の先輩とスタジオでご一緒し、自分の演奏の未熟さを知りました」
自らのレベルを悟ったことで、自主特訓の毎日が始まる。
「就寝中もフェンダーを傍らに置き、起床後2時間、就寝前2時間を練習に。肉体の一部、精神の一部にしたかったんです。2年くらい、レコーディングで深夜帰宅してもライブで疲れ果てても欠かしませんでした」
その成果で現在の“亀田サウンド”ができあがった。どんな曲でも、どんなメンバーでも、どんな環境でもいけると思えた頃に椎名林檎と出会ってバンド、東京事変の礎も築いた。
亀田氏とフェンダーのジャズベースとの関係に変化が訪れたのは2006年のこと。
「東京事変のアルバム『大人(アダルト)』の時に、エンジニアからベースだけ録り直してほしいと言われました。聴き直すと、確かに音程が不安定。楽器に経年劣化が起きていたのです」
メンテナンスに出しても元には戻らず、苦しい思いをした。同じ頃、自身も腱鞘炎に。
「自分もフェンダーも負担を減らさなくてはいけない年齢になっていたのです。それで、新しいベースを作る決心をして、ヤマハに依頼しました。リクエスト内容はふたつ。身体の負担軽減のための軽量化と、僕のフェンダーに近い音の実現です」
亀田氏の理想とする音色と軽量化の両立は難しいオーダーだったが、ヤマハの技術スタッフは誠実に対応してくれた。
「完成したのがYAMAHA BB2024SK カメダカスタムです。僕のフェンダーの音も、ヤマハの名器、BBシリーズの響きも感じられます。今、レコーディングはフェンダー、ライブでは主に亀田仕様のヤマハで演奏しています」
’20年からは、さらに理想の亀田サウンドを追求したYAMAHA BBP34 カメダカスタム Proto3.1を開発している。
「東京事変として出演した昨年の紅白歌合戦では新型で演奏しました。それは、今後勝負どころでこのベースを弾くという決意表明でもあるのです」
Seiji Kameda
音楽プロデューサー・ベーシスト。1964年ニューヨーク生まれ。椎名林檎、平井 堅、スピッツ、GLAYなど多くの人気アーティストの楽曲を手がける、稀代のヒットメーカー。2007、’15年に日本レコード大賞編曲賞を受賞。’19年より日比谷音楽祭の実行委員長を務める。
KAMEDA’S TURNING POINT
20歳 その後35年以上亀田サウンドを支える1966年製フェンダーを購入。
25歳 初めてアレンジを手がけた後、ベースの自主特訓期に入る。
34歳 椎名林檎と出会い「幸福論」「歌舞伎町の女王」をアレンジ。その5年後、東京事変を結成。
42歳 フェンダーの不調と身体の負担軽減のため、ヤマハにベースを依頼。