世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2010年2月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
何事につけても、希望するのは絶望するのよりよい。可能なものの限界をはかることは、だれにもできないのだから
――『ゲーテ格言集』より
絶望し得ない者は生きてはならない。絶望だけが義務だと言い切ったゲーテだが、それは希望と絶望が表裏一体であることから発せられた言葉。絶望の始まりには希望があったのだし、その終わりにはまた新たな希望が顔を出すかもしれない。やはり希望は生きていくことの礎となる。
もちろん人によって、希望の姿はそれぞれ違うだろう。億万の富。良き伴侶。健康。名誉や実績。喝采。あるいはそのすべて。
具体的であればあるほど道は見えやすいと言えそうだが、あらゆる現象は誰かの希望のために起きているわけではないので、強い希望を持つ人に限って、世の中はうまくいかないものだという絶望感にも陥りやすい。
そこで心の花の話。
南の離島でブーゲンビリアを見ているうちにふと発見した。詳しい人に訊いてみたらその通りだという。実はブーゲンビリアという花、派手な花弁を誇らしげに開いているような姿をしているが、本当はとても小さな花が尖端にちょこんと付いているだけなのだ。咲いているように見えるのは、この植物の葉の部分。
生き物にはみな希望がある。ブーゲンビリアのこのからくりに気付いた時、植物の内側で静かに保たれてきた希望を垣間見たような気がした。何万年もの間、ブーゲンビリアは明るく煌めく花を付けたい一心で生きてきたのだろう。
希望が、単なる衝動ではなく、本質的なものとなってその生き物の内側に宿るのなら、天地は時のなかで物語を用意してくれる。これは人も同じで、一人の人生はブーゲンビリアが経てきた時間に比べれば一瞬のようなものに過ぎないが、それでも希望を持ち続けることによってなんらかの変化を呼び込む可能性がある。努めることと、待つことさえ忘れなければ。絶望もまた希望のひとつの姿なのだと信じることができれば。
どんな長雨の日々にあっても、ブーゲンビリアの想いは一途だった。この世を組成するなにかがその声を聞き届けたのだ。人間には言葉や歌がある。繰り返しそれを求めることによって、私たちの花や葉も広がっていく。
――雑誌『ゲーテ』2010年2月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。2015年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。