世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2009年2月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
描かれうるものは、石から人間にいたるまで、すべて普遍性をもっている
――『ゲーテとの対話』より
この言葉のあとに、ゲーテはこう続ける。
「なぜなら万物は回帰するのであって、ただの一度しか存在しないものなどこの世にはないからだ」
繰り返し消滅し、繰り返し出現するあらゆる存在。仏教や老子が説くこの世の姿でもあるし、かつてキリスト教以前にヨーロッパに息づいていたケルトの汎神論もここに根がある。形あるものにも形ないものにも、神性が宿っている。加えて私たちは科学のおこぼれとして、自身を形作る粒子が流転していることを知っている。時を経れば、私たちは水になり、海になり、鳥になり、花になる。
そうした意味では、この世のあらゆるものに価値の差はない。それをどーんと理解した上で、人は創造的であれ、芸術的であれと説くゲーテの声に耳を傾けて欲しい。
フェデリコ・フェリーニの名作『道』に、こんなシーンがあった。頭が少し弱く、なにもかもが不器用な女、ジェルソミーナ。度重なる不幸のなかで自殺を決意する彼女に、サーカスの綱渡り芸人がそっと寄り添う。彼は路上の小石をそっとつまみ上げ、ジェルソミーナに静かに囁きかける。
「この石がなんのためにここにあるのか、ぼくらにはわからない。でも、なにかのためにあるんだよ。神様だけが知っている」
この映画を観たのは高校生の頃だ。強烈な印象を受けたくせに、フェリーニがなにを言いたかったのか理解できたのは、ようやく最近のことだ。
日常のひとつひとつ。地味なこと。平凡なできごと。そのなかに人の機微がある。
勢いのある者たちがついつい見落としてしまいそうなもの。権力を持つ者たちが踏みつぶしてしまいそうなもの。そうしたもののなかに、人の物語がある。
そして人が目もくれないもの。誰も大切にしようとはしないもの。そこにもきっと美はある。
自らの立ち位置を確保することは、自らの視線を持つということであろう。石ころにも普遍性を感じられる人は、どんな場所にあってもなにかを創作することができる。
逆説的な言い方になるが、たとえ今のあなたが、誰も振り向いてはくれない石ころのような存在であったとしても、あなたのなかに人類のすべてがあるのだから、自らを卑下する必要はない。あなたに宿る普遍的なものとともに、そっと息を合わせるだけでいい。
――雑誌『ゲーテ』2009年4月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。2015年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。