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2020.07.01

【令和2年の祇園さん①】1150年という祇園祭の長い歴史からみた令和2年の神事とは?

例年ならば、祇園囃子がそこここから聞こえる京都の7月。「京都に夏がやってきた!」と、町に暮らす人が心を躍らせ、皆で「平安を祈る」時でもある。だが、 新型コロナウイルスの影響で令和2年の祇園祭 (祇園御霊会) は規模を縮小して執り行われることに……。1150年という長い歴史の中でも、異例の形として執り行われる”令和2年の祇園さん”を5回連載でお伝えしたい。 第1回は歴史からみた令和2年の神事について、京都国立博物館名誉館員で日本史学者の下坂守先生にお聞きした。

令和2年の祇園さん

長い歴史の中では祇園祭の中止も余儀なくされた

祇園会神輿 貞観年中 山鉾町

祇園会神輿 貞観年中 山鉾町 ※画像提供:国際日本文化研究センター

新型コロナウイルスへの対策として国内外で「三密」の自粛が実施されるなか、八坂神社を始め、祇園祭に携わる宮本組や三社神輿会、祇園山鉾連合会などの各団体は検討を重ね、神輿渡御などの神事の一部と山鉾巡行といった人が密集する祭事についても中止することを発表した。

4月20日に行われた記者発表で、八坂神社宮司森壽雄氏は「苦渋の決断だったが、祇園祭は長い歴史のなか柔軟な考えで継承されてきた。今回も柔軟な考えで臨みたい」と話した。

貞観11年(869)年の創始以来、1150年に亘って執り行われ、人々の心の支えとなってきた祇園祭。日本史学者の下坂氏は「神輿渡御の中止は昭和21年(1946年)以来、74年ぶりだといわれています。ただ、歴史的な観点でいうと、1150年という祇園祭の長い歴史のなかでは、たびたび神輿渡御など神事の一部は延期や中止を余儀なくされました」と言う。

近年こそ、毎年滞りなくすべての神事を行っているが、かつては、政治や内乱などさまざまな理由で祭が中断することが多々あったそうだ。ただし、創始以来変わらないのは、祇園祭は天災や疫病の退散を願う祭であること、京都の町で暮らす人々にとっては、平和な町を保つための心のよりどころであることだ。

拾遺都名所絵図 祇園祭御祭禮

拾遺都名所絵図 祇園祭御祭禮 ※画像提供:国際日本文化研究センター

祇園祭(祇園御霊会)は、平安時代、桓武天皇が天災や疫病などから都を守るために執り行った祭礼だった。貞観11年(869)年に疫病が流行ったことから、神泉苑に当時の国の数66本の矛を立て、神輿を送って国家の安寧と厄災払いを願ったといわれている。

「一説では、神輿が京都の町を練り歩くようになったのは、天延2年(974)。市中の有力者(長者)の秦助正なる人物が神輿をお迎えする夢を見て朝廷に申し上げ、秦氏の邸があった東洞院高辻(現在の大政所)に御旅所をもうけて、お神輿を迎え入れたのが最初だといわれています。祇園の神々は神輿に乗って、鴨川を越えて洛中の御旅所に渡御することで、そこに住む人びとを直接、厄害から守ろうとしたのです」(下坂氏)

画像提供:祇園山鉾連合会

画像提供:祇園山鉾連合会

神輿渡御は祇園社の祭礼、山鉾巡行は町衆の心意気

さらにずっと歴史が流れ、南北朝時代の14世紀に山鉾巡行が始まった。山鉾は、神輿が洛中にでる前に、町を清めるための祭事とされている。

「当時、洛中には同じ仕事を生業とする同業者町があって、彼らが自分たちの町に神輿をお迎えするにあたり、鉾を建てたのが始まりという説があります。しかし、それはやがて祭を華やかに見せたい室町幕府によって次第に大規模なものとなっていきます」(下坂氏)

現在、祇園祭というと、まず山鉾巡行を思い浮かべる人が多いが、本来祇園祭の主な神事は神輿渡御であり、山鉾巡行は渡御を心待ちにする町衆が自分たちの裁量で始めたものである。それを支配者がみずからの権威を誇示するために利用することもあったということだ。

「室町時代には、祇園社は比叡山延暦寺の配下にあったこともあり、幕府と延暦寺の争いのなか、政治的に使われることもありました。なぜなら、民衆が神輿渡御を待ち望んでいたからです。民衆の心をつかみたい幕府は、神輿渡御を実行するかわりに、延暦寺と交渉して、彼らの要求をのむこともあったようです」(下坂氏)

そんな政戦のなかで、神輿渡御は夏には間に合わず、12月の雪が降る中で行われたこともあったという。

神輿渡御は祇園社(延暦寺)、山鉾巡行は室町幕府が掌握していたことから、一方だけが行われたことも多かった。応仁の乱の際には両者が断絶し、33年間中断された。

室町幕府の衰退後、祇園祭は明応9年(1500年)に復活。再開以降は、神輿渡御は祇園社が執り行い、山鉾巡行は町衆たちが運営することになる。

「平安時代に神輿渡御を行った秦助正の子孫が、以降も祭の中心を担ってきたという説もありますが、それがいつ頃までだったかは定かではありません。桃山時代になると豊臣秀吉は京都の都市改造のために、それまで上京・下京の二カ所にあった御旅所を現在の四条寺町の地に移しました」(下坂氏)

神輿渡御

臨機応変に柔軟に執り行ってこそ次代に繋げる

「江戸時代の祇園社境内は現在の場所から鴨川を超えた裏寺通りまであったといわれています。その境内の中に田畑があり、芝居小屋があった川端までの四条通りに面した場所には祇園町ができました。18世紀になると田畑にも町ができ、そこが新地、つまり現在の花街になりました。そして、境内の町のなか(祇園社の膝元=宮もと)で生まれたのが祇園社を支援する組織つまり『宮本組』であり、江戸時代以降は、神輿洗いやお神輿の御供(おとも)の役務を担うようになったのです。明治政府は神社に国のための祭(「鎮護国家」の祭)しか認めず、その結果、祇園祭はこれまでのように国の支援を受けられないようになります。ここに祇園祭はかつてない経済的な危機を迎えますが、そのようななか神輿渡御・山鉾巡行を支えたのが、宮本組が中心となって組織した神社の支援団体『清々講社』であり、京中の町々が寄り集まった氏子組織でした」(下坂氏)

江戸時代までは豪華を極めた山鉾巡行も、明治には鉾を休眠させたり、道具を保てなかったりという時期もあった。しかし、町衆や市民が苦労を重ねて資金を調達し自分たちの祭として継いできたのだ。

記者発表の際、森宮司が語った「長い歴史のなか柔軟な考えで継承されてきた。今回も柔軟な考えで臨みたい」との言葉は、まさにそのような祇園社の歴史を踏まえたものといえる。

「疫病退散のための祭なら、今こそ神輿渡御や山鉾巡行をやるべきでは」と言う人もいるようだが、祇園祭の神事はもちろん今年も執り行われる。神事は簡素化されても「人々の健康と平和を願う」祭の真意に変わりはない。

    令和2年の神事

  • 7月10日 神用水清祓式 神輿洗奉告祭 神輿洗式
  • 7月17日 前の祇園(神幸)
  • 7月23日 オハケ清祓式
  • 7月24日 後の祇園(還幸)
  • 7月28日 神用水清祓式 神輿洗奉告祭 神輿洗式

※それぞれ安全安心を第一に例年とは形式を変え執り行われる予定。

Mamoru Shimosaka

Mamoru Shimosaka
大谷大学大学院修士課程修了。大津市史編纂室勤務、1980年京都国立博物館学芸員、学芸課長、2003年文化庁文化財部美術学芸課長、’06年帝塚山大学人文科学部日本文化学科教授を経て奈良大学文学部史学科教授。立命館大学文学博士(’03年)。博士論文は「中世寺院社会の研究」

TEXT=中井シノブ

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