取材場所である東京ドームホテルからは、かつて上原浩治の主戦場であった東京ドームがよく見える。
2019年の11月に開催された国際大会「WBSCプレミア12」の解説者として、引退後この地を訪れた上原は、初めてスタンドから試合を眺めた。
「まず思ったのは、改めて現役がいい、ということでした」
“雑草魂”が流行語となり、自分自身も反骨心が原動力だったと語る上原だが、引退後はどのように暮らしているのか?
ボストン時代の2013年に獲得した「チャンピオンリング」。ワールドシリーズを制覇したメンバーだけに贈られる。サイドにUEHARAの名が刻まれ、アイコンの赤い靴下にはルビーがセッティングされたメモリアルな指輪だ。
「反骨心はなくなりましたね。張り詰めた糸が切れた感覚でした。すぐに荷物を整理して、家族が住んでいるアメリカに帰りました。その時に考えていたのは、毎日をどう楽しく過ごすか。それこそ6歳から野球を始めたので、ボールを握らない日々は約40年ぶりでしたから。しかしアメリカという拠点があったことはよかった。家族との時間も増えたし、何をしたいかをじっくりと考えることができました」
ボストン時代の2013年に獲得した「チャンピオンリング」。ワールドシリーズを制覇したメンバーだけに贈られる。サイドにUEHARAの名が刻まれ、アイコンの赤い靴下にはルビーがセッティングされたメモリアルな指輪だ。
日米を代表する名門で試合に出続けるためには、それこそ“野球漬け”でなければライバルたちには勝てない。だから現役を退いてからも「野球がやりたい」という気持ちが薄れることはなかった。アメリカでのんびりとした時間を過ごしながらも、野球界やスポーツ界のために自分は何ができるかを考えていた。そんな折、思わぬところから声がかかった。Yahoo! からのスポーツコラムの執筆依頼だった。コラム『上原浩治の野球に正解はない!』は、野球界の抱える問題への提言も多く、その鋭い切れ味は、時に波紋を広げた。
「真正面から発言すれば叩かれることもある。しかし、それでもいい。そうでもしなければ野球界は変わりませんから。それに僕は現役の時から叩かれていますから、もう慣れていますし」
そう笑う上原だったが、実際に彼がコラム内で異議を唱えた「田沢ルール(日本のドラフトを拒否した選手は、海外球団を退団後、一定期間、日本のプロ野球でプレーできない)」は、その意見に選手会も賛同したこともあり、ルールが撤廃されることに。やはり日米で活躍した名選手の提言には説得力があるのだ。さらには自分の声でメッセージを伝えたいという思いから、YouTubeチャンネル『上原浩治の雑談魂』もスタートした。
「テレビ番組や新聞だけでは、自分の思いをニュアンスまで伝えられない。制作会社からのオファーがあってスタートした番組ではありますが、僕も企画に参加し、意見を出し合いながら一緒に作っている。本業ではないので毎日動画をあげることはできませんが、評判はよいですし、選手時代とは違った挑戦を楽しんでいるところです」
反骨心はなくなったとは言うが、日米で積み上げてきた数々の実績を振りかざすことなく、正しいと思った道を進むという真っ直ぐな気持ちは揺るがない。
1965 メカニカルダイバーズ 現代デザイン
SBDC101
1965年に誕生した国産初ダイバーズウオッチのデザインに現代的な解釈を加えた「SBDC101」。200m防水や70時間のパワーリザーブ機能といった優れた性能を持ち、ケース径を40.5mmに抑え、普段使いはもちろんスーツにもぴったりなサイズ感に。自動巻き、SSケース、径40.5mm。¥130,000(セイコーグローバルブランド コアショップのみで取り扱い)
そんな実直な上原が選んだ時計が、“常なる前進”を意味する「Keep Going Forward」をブランドフィロソフィーとするセイコープロスペックスである。今年で55周年を迎えたプロスペックスの原点はダイバーズウォッチ。過酷な環境で使われる時計ゆえに性能への信頼が重要なダイバーズウォッチは、いうなれば精密かつ堅牢な時計作りを象徴する存在でもある。
「メイド イン ジャパンの品質のよさや精密さは、誰もが認めるところですが、このレベルまでたどりつくことは簡単ではない。僕の武器は精密なコントロールでしたが、それだって何度も練習し、トライ&エラーを積み重ねたことで体得できた。それはセイコー プロスペックスの時計だって同じですよね。作り上げたものに満足しないで、もっと上を目指す。それだけが世界に通用する道。セイコーの時計にはそういった信念を感じる。だって失敗しないと“SEIKO(成功)”しないでしょ」
端々にジョークを織り交ぜ、カメラマンにツッコミを入れながらの取材は終始笑いに包まれる。それはマウンド上で吠えた男とは違った魅力があった。
1993(18歳) | 東海大仰星高校野球部時代は、控え投手。チームのエースは、後に同じプロ野球選手になる建山義紀が務めた。「ただひたすら、“甲子園に連れていってくれ”と思っていた(笑)」 |
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1994(19歳) | 体育教師になるために大阪体育大学を受験するも不合格。浪人期間中は、トレーニングに没頭する傍ら、道路工事のアルバイトもしていた。「先が見えない不安に駆られた1年でした」 |
1995(20歳) | 大体大に入学。野球部に入部し、1年から活躍。大学4年間で36勝4敗、最優秀投手賞4回。日本代表にも選ばれ大活躍する。「最初は教師になることしか考えてなかった」 |
1999(24歳) | 巨人にドラフト1位で入団し、いきなり20勝4敗。背番号19には「19歳の浪人時代を忘れない」という思いが込められている。「右も左もわからなかったからよかったのかもしれない」 |
2002(27歳) | 17勝を挙げて2度目の最多勝。日本シリーズでも快投するなどチームを日本一に導き、巨人の絶対的なエースとして君臨。「自分の思いどおりのボールが一番投げられていた頃。日本一に貢献できた思い出深い年」 |
2006(31歳) | 第1回WBCの日本代表に選出。準決勝の韓国戦で7回無四球無失点の快投で勝利を呼びこむなど、大会を通してエース級の活躍を見せる。「世界を相手に勝ててよかった。準決勝登板後に子供が生まれたことは生涯忘れられない」 |
2007(32歳) | チームの方針によりシーズン序盤に抑えに転向。当時、球団新記録となる32セーブを記録。「抑えを志願したわけではなく原監督に説得されただけ。新しいことを経験できてよかった」 |
2009(34歳) | メジャーリーグに挑戦。ボルチモア・オリオールズに入団するも、開幕から2ヵ月後に右肘を負傷して離脱。「肘が“飛んだ”という感覚。これで終わったなと思ったし、周りからもそう思われていた」 |
2013(38歳) | テキサス・レンジャーズを経て入ったボストン・レッドソックスで大活躍。シーズン途中からクローザーを務めワールドシリーズ制覇。「自分が活躍して世界一になれたことが、とにかく嬉しかった」 |
2018(43歳) | 日本球界に復帰。巨人の中継ぎとして、日本人で史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを達成。翌年に引退を決断する。「自分の進む道をどうするか、ということを考え続けた年でした」 |
2020(45歳) | プロ野球解説者として、Yahoo!、YouTubeなどで活躍。10月にはNHK『サンデースポーツ』の解説者に就任した。「選手時代とは違った挑戦を楽しんでいる」 |
1975年大阪府生まれ。高校時代は外野手兼控え投手。浪人生活を経て大阪体育大学に入学し、投手として頭角を現す。’98年にドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1年目で20勝を挙げ、その後はエースとして活躍。2009年にメジャー入り。’13年にはボストン・レッドソックスで世界一に。史上初の100勝100セーブ100ホールドを達成。
ジャケット¥210,000、ニット¥172,000、チーフ¥17,000(すべてイザイア/イザイア ナポリ 東京ミッドタウン 03-6447-0624)
Lineup
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Text=篠田哲生 Photograph=小田駿一
Photo Retouch=上住真司 Styling=久保コウヘイ
Hair & Make-up=三輪昌子