プロとして20年近く在籍し続けたガンバ大阪の本拠地スタジアムを背景に、遠藤保仁が撮影に臨んだ2日後。衝撃のニュースが飛びこんできた。「ガンバの象徴・遠藤保仁、磐田に期限つき移籍」―。
21歳だった2001年の移籍1年目からレギュラーを摑み、翌年から日本代表でも常連になった。その後、J2降格、J1復帰、クラブ史上初の3冠達成など、栄枯盛衰のなかで、チームは国内ビッグクラブの仲間入りを果たした。その歴史において、遠藤は常に“チームの象徴”として君臨。不惑を迎えた今季も、第2節(7月4日)で楢崎正剛を超えるJ1史上最多632試合出場をこのスタジアムで達成した。チームの方針もあって、24歳の井手口陽介らにポジションを譲り、先発出場は激減していたが、この日のインタビューでは「若手を使いたいという(宮本)監督の方針も理解しているし、出場した時には若い選手の見本となるようなプレイをしなければいけない。それができるように毎日努力してやっていく」と苦境を前向きにとらえていた。
そんな矢先に届いた、ジュビロ磐田からの熱烈オファー。もちろん、ガンバに誰よりも愛着を持っていたことには違いなく、自らを育ててくれたクラブ幹部からも強く慰留された。だが、そんなことをかなぐり捨ててでも、出場機会が欲しかった。そんな挑戦と前進の道を選ぶのが、遠藤という男なのである。
ガンバ大阪の公式会見では「やっぱり出場時間も含めてたくさん試合に出たい。ただ、向こうに行っても試合に出られるという保証は何ひとつないので、新人の時のような気持ちでゼロからのスタートです。新しい挑戦にワクワクしています」と早速、前を向いてみせた。
3つの針、インデックスや回転ベゼルは1965年オリジナルモデルを彷彿とさせる。シックなチャコールグレーの文字板は、手元に大人の存在感を演出できる。
このような妥協なき決断を下した背景には、12年前の“ある出来事”がある。’08年シーズン中、謎のウイルス感染症にかかった体験である。
「発熱、吐き気、だるさが続き、入院し、いろんな検査をしました。症状は2週間ほどで治まりましたが、サッカーができないので理想と現実の間で大変苦しい思いをしました。北京五輪にオーバーエイジ枠で出場を狙っていましたが、ドンピシャで重なってしまいました」
当たり前のようにできていたサッカーができない。ただただベッドの上で、痛みと戦う日々が続き「これまでで一番苦しかった」と振り返る。まさに地獄のような時間を過ごしていた遠藤の脳裏にふと、ある言葉が去来した。鹿児島実業高校時代のブラジル人コーチからかけられた「君には、目も耳も歯も手も足もある。それだけで恵まれている」というひと言だった。
自分が好きなことを何不自由なくできる環境がいかに恵まれていたか。そのことを、身をもって痛感した瞬間、高校生の頃はピンと来なかったコーチの言葉が、妙に腑に落ちた。ただただ、ピッチを走りたい―。
それ以来、誰よりも試合への出場にこだわるようになった。海外クラブからのオファーも何度もあったが、あくまでも自分の力を最大限に発揮できるガンバ大阪という現実的な場所を選択。そして今回、誰もが驚いた40歳の決断も、「試合に出たい」という純粋な思いに駆られたからである。
2016年からガンバ大阪がホームスタジアムとして使用。周辺にはクラブハウスや練習場も。磐田への移籍が決まったが、遠藤は「自分のサッカー人生のほとんどをここで過ごした。ここ以上のクラブはない。戻ってきたいという気持ちは強く思っています」と移籍会見で話した。
この日、遠藤が着用したセイコー プロスペックスは“常なる前進”を意味する「Keep Going Forward」をブランドフィロソフィーとする。これは、どんな困難が訪れようともダイバーウォッチを55年間ひたむきに作り続けてきたブランドの姿勢を表したもの。それを聞くと「そのまま自分の言葉にしたいぐらい」と100%の共感を抱いた。
「僕は、プロとして挑戦し続けなければいけない立場。挑戦をやめてしまったら先には進めないし、現役生活が縮むかもしれない」
彼が人々の心を揺さぶるのは、記録だけではない。「試合に出てチームに貢献したい」という誰にも負けない強い信念を持っているからなのだ。
1995(15歳) | 強豪・鹿児島実業高校サッカー部に入部。2年時にはU-18日本代表に選出され、ブラジルに短期留学。「プロに入りたい一心でサッカーに取り組んでいた時期」 |
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1998(18歳) | 高校卒業後に横浜フリューゲルスに加入。高卒新人ながら16試合に出場。「プロとして、いろいろなことを学んだ年」 |
1999(19歳) | 京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)へ。U-20日本代表としてワールドユース準優勝。「代表選手と試合に出て手ごたえを摑んだ年」 |
2001(21歳) | ガンバ大阪へ。移籍1年目からレギュラーを摑み取り、以降、チームの中心的選手となる。「さらに上を目指すための挑戦の年」 |
2002(22歳) | 日本代表ジーコ監督によりフル代表に初招集。11月のキリンチャレンジカップで初出場。「代表でもやれる自信が出て世界を意識するようになった年」 |
2006(26歳) | W杯(ドイツ)代表に初招集されるも、GK以外の選手で唯一ピッチに立てなかった。「改めて闘志に火がつき、W杯に出たい思いがさらに強くなった年」 |
2008(28歳) | ウイルス感染症で長期離脱。北京五輪代表が確実視されるも、参加できなかった。「これまでの現役生活で最も苦しかった年」 |
2010(30歳) | 2度目となるW杯(南アフリカ)は全試合スタメン出場を果たし、W杯初ゴールも記録。「サッカー人生において、とても充実した年」 |
2013(33歳) | 自身初めてとなるJ2でプレイ。主将として降格したチームを1年で昇格させる。「アウェイの地でも常に満員。ガンバの人気を知った年」 |
2014(34歳) | 3大会連続のW杯(ブラジル)出場。ガンバ大阪ではクラブ史上初の3冠を達成し、MVPを獲得。「W杯出場やクラブ3冠などが重なり、多忙で充実した年」 |
2020(40歳) | リーグ戦の第2節セレッソ大阪戦(7月4日)でJ1史上最多となる632試合出場を達成。10月5日、ジュビロ磐田への期限つき移籍を発表。「記録を積み重ね、歳を重ねたと実感した年」 |
1980年鹿児島県生まれ。’98年、鹿児島実業高校から横浜フリューゲルスに加入。京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)を経て移籍したガンバ大阪では数々のタイトル獲得に貢献し、2003年から10年連続ベストイレブンに。日本代表でも’02年からフル代表の中心選手として活躍し続け、W杯に3度出場。国際Aマッチ出場152試合は日本人最多記録。
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Text=鈴木 悟(編集部) Photograph=佐藤 亮
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