日本人初の独リーグ主将になった男・酒井高徳が生みだしたリーダー論

日本人とドイツ人、所属クラブと日本代表、栄光と葛藤、さまざまな苦悩を乗り越え、「ハーフ」ではなく、「W(ダブル)」として、強くなったサッカー選手・酒井高徳。幼少期からの衝撃的なトラウマを経て、日本人初のブンデスリーガ・キャプテンになった男が生みだしたリーダー論を公開。


酒井高徳のリーダー論①「チームの可能性を引き出す方法とは?」

2016年11月、ドイツ・ブンデスリーガの古豪、ハンブルガーSVの監督は、2部降格争いを続けるチーム立て直しのために、ひとりの日本人をキャプテンに指名した。1,977年奥寺康彦がケルンへ加入して以降、数多くの日本人選手がブンデスリーガでプレーしてきたが、チームキャプテンを任されたのは、酒井高徳が初めてだった。

日本人の父とドイツ人の母のもと、1991年に生まれた酒井は、新潟・三条市で育つ。2012年1月にアルビレックス新潟から、ブンデスリーガ、シュトゥットガルトへ移籍加入。当時の酒井はドイツ語をほとんど話せなかった。そんな彼が、キャプテンを任されるほど、高いコニュニケ―ション力を身に着けられた理由のひとつに、酒井自身の幼少期の経験がある。

「幼稚園、小学生低学年までの間、僕は周囲の眼や声に過敏な子どもでした。だから当時の集団生活でいい思い出がないんです」

髪や瞳の色が明るく、周囲の日本人の子どもたちのなかに立てば異質な存在だった。「ハーフ」や「外人」と呼ばれる理由やその意味も理解できなかったが、深く傷つき、仲間との関係性をうまく築けなかった。小学校高学年のころに始めたサッカーで、頭角を現したものの、相手チームの選手たちから嘲笑されることも少なくなかったという。

酒井高徳のリーダー論① の続きはこちら


酒井高徳のリーダー論②「仲間から信頼を得るためには?」

高いコニュニケーション能力を評価され、日本人で初めて、ドイツ・ブンデスリーガでキャプテンを務めた酒井高徳。チームメイトの可能性を最大限に生かすため、自身の気持ちを伝えるだけでなく、相手の考えを導く会話を心がけている。そんな酒井キャプテンが大切にしているのが、監督との距離感だ。

「キャプテンになってからは、監督に呼ばれない限りは、自分から監督に声をかけたり、ふたりだけで話す機会も極力行わないようにしています」

選手を代表し、キャプテンとして、指揮官に意見をいったり、提案をするなどの仕事を自覚はしているが、同時に指揮官と距離の近いキャプテンの姿を仲間が見てどう感じるかという配慮があるからだ。それは10代の終わりの苦い経験が影響している。
 
高校に進学すると同時に、地元新潟のJリーグクラブ、アルビレックス新潟のユースチームに所属した酒井は、3年になるとユースに所属しながらも、トップチームの一員として、練習、試合とプロの選手たちとともに活動することになる。午前午後とトレーニングを実施するユースとは違い、トップチームは午前中の練習だけ。通っていた通信制の高校の課題を終えた夕方、時間を持て余し、夕食を外で食べる機会が続いた、そんなある日のこと、注文を終えたとき、酒井の携帯電話が鳴った。

酒井高徳のリーダー論②の続きはこちら


酒井高徳のリーダー論③「人とは違う、それでいい!」

「中学2年の誕生日に父がスパイクを買おうと言ってくれたんです。でも僕は『どうせすぐにダメになるんだから。買わなくてもいいよ』と断りました。自分の家の財政状況に余裕がないことはわかっていたので。サッカーを始めてからもスパイクはいつもチームメイトのお古をもらっていました。誰かが新しいスパイクを買うと『もうこれ履かないなら、僕が履いていい?』と言って。だから、左右のスパイクが違うこともあったけど、恥ずかしいなんて微塵も思いませんでしたね。

それよりも僕が『スパイクをほしい』と言うことで、両親を困らせることになると思っていたから。サッカー専門誌のスパイク特集やスパイクの広告を何度も見て、スパイク欲を満たしていました。だから、どうしても買うといって譲らない父とショップへ行ったときは、ほしいスパイクはすぐに決まりました」

外国人のような容姿をからかわれる現実。フィジカルでは勝てても技術では勝てないという現実。豪雪地域である新潟では1年中サッカーがグラウンドではできないという現実。幼い酒井が受け入れなければいけない厳しい現実は数々あったが、それは特別なことだと考えることもなく、当たり前だと彼は飲み込んだ。

酒井がサッカーを始めたのは小学5年生。同世代のなかでは遅すぎるスタートだった。それでもその高い能力が開花するのに時間はかからず、市、県、地域と代表チームに選抜される。ステージが高くなれば、自分よりも巧い選手や強敵と出会い、そのたびごとに心を折られる。それでも「負けたくない」「もっとうまくなる」と立ち続けた。そんなふうにステップアップを続け、日本代表としてイタリア遠征にも出かけたが、中学生の酒井の目標には、「Jリーグ」はおろか、「日本代表」もなかったという。

酒井高徳のリーダー論③の続きはこちら


酒井高徳のリーダー論④「"日本代表からの引退宣言”の本当の理由」

「4年後は目指しません」

2018年7月、ワールドカップロシア大会決勝トーナメント対ベルギー戦後、酒井高徳は報道陣の前でそう語った。それは「日本代表からの引退宣言」として報じられた。

酒井が日本代表の一員となったのは、2009年12月19歳のときだった。すでにアジアカップの予選突破を決めていた日本代表は、消化試合となる2010年1月の試合に若いチームで挑み、そのひとりに選ばれたのだった。中学3年のときから年代別代表で活動していた酒井は当時すでにアルビレックス新潟でプロデビューをしていたが、彼にとっても驚きの招集だった。そしてその半年後、ワールドカップ南アフリカ大会へ出場する日本代表の帯同メンバーに同世代の香川真司(ベシクタシュ/トルコ)、永井謙佑(FC東京)、山村和也(川崎フロンターレ)とともに選出される。

「年齢制限のないA代表の選手たちの空気に圧倒されました。気づかれないままワールドカップが終わればいいなと思うほど。いっしょに練習させてもらったんですけれど、アルビでも自分の力のなさを痛感していたので、『ミスをして邪魔したら大変だ』という重圧をずっと感じていまいました。そんな僕の気持ちをほぐすように、(中村)俊輔さん(ジュビロ磐田)が、アドバイスをしてくれたり、イジってくれたのがうれしかったですね」

ワールドカップを前に苦戦が続く日本代表チームが、そこから抜け出そうと苦心する様を間近で体験するなかで、「日本代表」というグループの重みや誇りを知ることになった。同時に、チームの変化とともに、ポジションを失った選手をはじめ、ベンチに座る選手たちの献身性に心打たれることになる。

「ナラ(楢崎正剛)さんや俊輔さん、そして(内田)篤人くん(鹿島アントラーズ)など、アジア予選は主力で戦っていたのに、本番直前に戦い方が変わったりして、控えに回る人たちもいました。自分の立場が変わっても、チームのためにという気持ちがまったく変わらなかった。Bチームの選手が紅白戦をやったあと、Aチーム(先発)の選手に『俺が相手だったら、ここを突く』というようなアドバイスを送る。

酒井高徳のリーダー論④の続きはこちら


Gotoku Sakai
1991年生まれ。日本人の父とドイツ人の母の間にアメリカで誕生し、新潟県三条市で育つ。2009年アルビレックス新潟ユースからトップチームに加入。‘12年1月、ドイツ・ブンデスリーガのシュトゥットガルトに移籍。’15年7月、ハンブルガーSVへと移籍。古豪の名門クラブでキャプテンに指名される。ブンデスリーガ初の日本人キャプテン。’14年ブラジル大会、’18年ロシア大会と2大会連続でW杯メンバー入り。日本代表Aマッチ通算42試合出場。


Text=寺野典子 Photograph=杉田裕一