【阿部勇樹】浦和1年目、7つのポジションで自分らしくプレーできた理由

阿部勇樹は輝かしい経歴の持ち主だが、自らは「僕は特別なものを持った選手じゃないから」と語る。だからこそ、「指揮官やチームメイトをはじめとした人々との出会いが貴重だった」と。誰と出会ったかということ以上に、その出会いにより、何を学び、どのような糧を得られたのか? それがキャリアを左右する。【阿部勇樹 〜一期一会、僕を形作った人たち~⑭】。

リベロでの起用に躊躇はなかった

2007年1月下旬に加入会見を行った僕は、浦和レッズの一員として、さっそく、ブルズカップに出場するため、ザルツブルグへ飛んだ。2月13日に行われた試合はレッドブル・ザルツブルグとバイエルン・ミュンヘンと45分ずつの変則マッチを戦い、1-3、0-3と連敗した。帰国後すぐに指宿での合宿を行い、2月24日のゼロックス杯ではガンバ大阪に0-4で敗れている。

ゼロックス杯ではボランチで出場しているが、Jリーグ開幕戦では、リベロで起用されて、横浜FCを2-1で破った。

僕のリベロ起用は、(田中マルクス)闘莉王が体調不良での欠場していたことが理由だった。続くACL初戦でも同様に闘莉王が欠場し、僕はリベロで出場している。

ジェフ千葉時代にも、複数のポジションでプレーしていたけれど、僕の主戦場はボランチといわれていた。しかし、浦和には、鈴木啓太と長谷部誠がボランチとして定着していたので、僕の加入によって、「ボランチのポジション争いが勃発する」という報道も少なくなかった。僕自身もボランチへの愛着は強い。けれど、自分のポジションよりも、チームのために最適な場所で、仕事をすることへのこだわりの方が強かった。

だから、リベロでの起用に躊躇はなかった。

この年、浦和はJリーグだけでなく、ACLも戦い、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)や天皇杯、そして、中国、韓国のリーグ王者と開催国のクラブの4チームが戦うA3チャンピオンズカップへの出場が決まっていた。

この年、僕は7つのポジションでプレーした。ボランチやリベロだけでなく、3バックのサイドやアウトサイドなどだ。

「今、このチームで僕を活かすなら、3バックの左がいいんじゃないか」と監督だったか、コーチのゲルト(・エンゲルス)に直訴したこともある。それはチームのためだけではなく、自分にとってもそれが最適だと感じたからだ。

移籍当初は、浦和でも、ジェフでやっていたプレーをすればいいと思っていた。でも、ジェフのサッカーと浦和のサッカーは違う。チームの戦い方を優先したうえで、僕になにができるのかを考えた。たとえば、ジェフは「みんなで」というイメージの強いサッカーだ。浦和は高い能力をもった選手が多く、個の能力が秀でた集団。だからこそ、僕はチーム後方から、ボールを運んだり、ズレたところを補うような仕事ができるんじゃないかと思い、提案した。

そんな僕の提案がどう影響したのかはわからないけれど、オジェック監督は、いろんな場所で僕を使ってくれた。新しいポジションでプレーするときも特別な指示はなかったと思う。「お前ならできるだろう」という信頼が伝わってきた。

けれど、当初は「本職の選手に比べたら、やれないことのほうが多いんじゃないか。やれることが少ないけど、大丈夫か? 本当に自分でいいのか?」という気持ちもあった。だからこそ、やれることはしっかりとやる。誰かの真似をする必要はないと考えるようになった。

たとえば、攻撃的なアウトサイドでのプレーをするときも、僕にはドリブルなど、個人で突破する力はわずかだ。だったら、簡単に味方へボールを預けて、次のプレーをうながす。一人で突破できずとも、複数の選手が関わることで、相手ゴールへ迫れるはずと考えた。

自分にはできないプレーをいち早く判断し、それに変わるプレーを選ぶ。そんなふうに常に「どうすれば、自分らしくプレーできるか」を前向きに考えられるようになった。

オジェックさん率いる浦和は、リーグ戦を9勝6分1敗で折り返し、1位のガンバ大阪に5差の2位に立っていた。ACLのグループリーグも2勝4分の負けなしで突破。試合が多く、回復メニューが中心で、練習らしい練習ができない状況だったけれど、試合を重ねることが、強化になっていく感覚が生まれた。

⑮に続く

Yuki Abe
1981年千葉県生まれ。浦和レッズ所属。ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出される。'98年、ジェフユナイテッド市原にて、16歳と333日という当時のJ1の最年少記録を打ちたて、Jリーグデビューを飾る。2007年、浦和レッズに移籍。2010年W杯終了後、イングランドのレスター・シティに移籍。'12年浦和に復帰。国際Aマッチ53試合、3得点。

Text=寺野典子 Photograph=杉田裕一