【連載】男の業の物語 第十回『臆病の勇気』


怖いもの知らずという言葉があるが、どんなにタフな男でも怖いものは怖い。私が幼い頃から手慣れてきたヨットの世界でも相手は海だからいつ何が起こるか分かりはしない。それを承知で誰しも海に魅かれて板子一枚下は地獄かもしれぬ海に出かけて行くのだが、昔は今と違って天気の予報は大まかなものだった。それでも海は海の魅力で私たちを引きつけて放しはしなかった。

海で発生して突然襲いかかる局地的な寒冷前線のことを漁師たちは「カンダチ」、つまり神様が立ち上がってつくるものと呼ぶが、まさに適言であの寒さを伴って襲いかかる自然現象は神様の悪戯としか言いようもない。だからカンダチなる突風に出合って船を弄ばれたことのないような奴は一人前のヨットマンとは言えはしまい。

そんな時にあの悪意に満ちた突風にどう立ち向かうかによって、その男の度量が測られ仲間の連帯も培われていくものだ。

一九六三年のトランスパックヨットレースの十日目だったろうか、追っ手の貿易風を受けて順調に走りつづけていた最中、満帆に風をはらんで走りつづけていた船のスピンネーカーのトップのワイアが風の圧力で伸びて少し下にずれているのに舵を引いていた私が気付いた。仲間に促したが丁度夕食の最中で、まあ大丈夫だろうと高をくくっていたらアッという間にマストヘッドのワイアが切れてスピンネーカーが落下してしまった。

さあ誰がマストに這い上がって危険な修理の作業をするかという段になって、最年少の石川が前日裸足での作業中ボルトを踏んで怪我をして登れない。そんな中で日本では『マヤ』という船のオーナースキッパーの市川が自ら名乗り出てくれて小さなボースンチェアに座って見上げる仲間が息を殺して見守る中、高さ十五メートルのマストヘッドにたどり着き、見事に修理を終え事なきを得たものだった。命がけの作業を終えて無事に帰還した彼を全員が歓呼して迎え、船は何とかゴールのホノルルを目指して走りつづけることが出来たものだった。

命がけの作業から戻った彼が皆に嘯くことに、あのマストの高みから眺めた太平洋はデッキから眺めるのとは格段に違っての絶景だったそうな。

「コックピットにいた連中にあたりはもう夕暮れて見えたろうが、俺のいた十五メートル上空のマストから眺めた太平洋はまだはるか彼方は夕映えで明るくてな、なんとも言えぬ絶景だったぜ」

胸を張り嘯いてみせる彼を下界で眺めながら息を殺していただけの我々としては、ただ頷いて拍手するほかにありはしなかった。その彼の正しく命がけの冒険の論功に応えて、ホノルルに着いて飢えている皆のために現地の悪友がハオレとロッコの混血のかなり見栄えするプロの女を用意してくれてい、みんなが代わる代わる堪能する順番にはあの命がけのマスト登りをした彼が優先権を与えられたものだった。

いつかその逆の事例を目にして逆に感心させられたこともある。かつて行われていた下田起点の黒潮南進レースに出るため下田に向かう途中、大島のハブの港に一泊したら次の日強い西風が吹き出し、とても下田には向かえずに吹き戻され、やむなく伊東に入ろうとしたが、ここでも天城下ろしの強烈な西風に港にたどり着けず、する内にジブ(前帆)のブロックが外れて飛びそうになると船は走りに走りきれず、たまたま私の横にいた井野というクルーに「手のすいているお前が這っていってジブを押さえろ」と命令したら彼が、「嫌です。俺には怖くて出来ません。もう諦めて帰りましょうよ」と真顔で答えた。こちらも呆れて、「馬鹿野郎、お前それでもヨット乗りかあっ、行けよっ」。腰を蹴飛ばして怒鳴ってもコンパスにしがみついて離れない。

する内、バウワークから手がすいて戻ってきたベテランの石川が彼の代わりにデッキを這っていってトライしたがどうにもならない。船は風に弄ばれるまま横流れし近くの大暗礁犬走島に乗り上げそうになり、その時天の恵みか港に帰る漁船が近付きその船に救急の曳航を頼み、なんとか港に入ることが出来たものだった。

船を舫い一息ついた後、私は改めて私の命令に背いて「怖くて出来ません」と反抗して動かなかった男の顔をしげしげ見直してみたものだった。日頃何かにつけて格好をつけたがる男だったが、それにしてもあの死ぬか生きるかの急場の中で「僕には怖くて出来ません」と男のくせに臆病をさらけ出すことが出来たのも、ある種の勇気の問題かとつくづく思った。

しかし以来、私が彼を二度と自分の船には乗せることはなくなったのは自明のことだろうが。まあ男にもいろいろな奴がいることは確かなことだろうが、それにしてもだ。

第十一回に続く
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石原慎太郎
石原慎太郎
Shintaro Ishihara 1932年神戸市生まれ。一橋大学卒業。55年、大学在学中に執筆した「太陽の季節」により第一回文學界新人賞を、翌年芥川賞を受賞。ミリオンセラーとなった『弟』や2016年の年間ベストセラー総合第一位に輝いた『天才』、『法華経を生きる』『老いてこそ人生』『子供あっての親-息子と私たち-』など著書多数。
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