犬vs猫 対極を愉しむ 出井伸之vol 25


猫には愛されるだけの理由がある

僕の猫好きは子供の頃からである。単に愛くるしいだけではない。猫には愛される理由があることを、家で飼っていた猫から学んだ。例えば猫は、かわいがってやろうと近づいたとしても、必ずしもいい顔をしてすり寄ってくるわけではない。むしろ、プイと横を向いてどこかに行ってしまうことのほうが多い。だが、そうかと思えば、僕が夜、家に帰ってくると、門灯の上でさり気なく待っていてくれたりする。ちゃんと折を見て忠誠心を示してくれるのだ。呼んだ時には来ないが、意外な時にいてくれたり、来てくれたりするほうが、実は嬉しいものだったりする。これぞまさに甘え上手というものだろう。
 猫は犬と違って「お手」をしたりはしないが、それは「お手」ができないのでは決してないと僕は思っている。呼ばれていることがわかっているけれど行かないのと同じように、「お手」もできるけれどしないのだ。また、子猫を持つ親猫は、子供がごはんを食べ終わるのを見守り、それから親が食べる。そんなことができるのも人間の心をくすぐる。猫には基本的に意思と志向性、自制心があるのだ。


 そして僕はいつしか、人には大きく猫タイプと犬タイプがいることに気付いた。厳密にいえば猫的な要素が多いか、犬的な要素が多いか、である。もっというならば、外に出そうとしているのが猫的なものか、犬的なものか、と言い換えてもいいかもしれない。ちなみに、僕は完全に猫である。
 向かうものがあれば一心不乱に突き進むのが犬のよさである。しかも集団行動が好きで、調和を好む。一方、自由人で気ままで、自分が出てきたい時だけ出てくるのが猫である。だが、その瞬発力は犬をはるかに上まわる。そしてこうした特性は、企業の経営にも通じるものがあると僕は考えた。

日本に求められるのは猫的な要素

アメリカの空港内ではマッサージグッズの店に行くことが多い。ボストンの国内線ターミナルの「EXPRESS SPA」で思わず目が合ってしまったのが、このパンダの機内枕。「連れて行ってほしい」と哀願していたので、日本にまで連れてきた。

わかりやすくいえば、成長期に求められるのは、まさに犬的なものだろう。そして今の成長国を見ていると、なんとなく犬のイメージがしてくる。一方で成熟期に求められるのは、猫的なものである。犬は狩猟犬に代表されるように、基本的に飼い主の意向に沿って動く動物であり、自分の意思よりも主人の意思を尊重する。だが、猫は自分の判断で動く。しかも、猫には文化や個性の香りがする。日本でも文豪たちがこよなく愛したのが猫であり、『吾輩は猫である』という傑作もある。これが、『吾輩は犬である』という作品として成立したかどうか。
 今の日本に求められているのは、まさにこの猫的な要素だと思うのだ。そう考えて経営者を眺めてみると、かなり猫っぽい人が多いことに気付く。また、コミュニケーションにおいても、犬型のストレートで単純なものよりも、猫型の意外性のあるもののほうがインパクトがあるのではないか。
 先日もニューヨークで、その典型的な会話を味わった。たまたま入った美術品の店でキュレーターはこう言ったのである。
「明日になっても覚えている絵があったら、ご連絡ください」
 これは本当にうまいと思った。犬っぽく、まっすぐに絵を薦めることなどしない。だが、このほうがよほど印象に残る。なんとも猫っぽいと思った。
 ちなみに優れた猫型社員を部下に持つにはコツがいる。それは、忍耐力である。気ままな自由人を野放しにしておくには、それに耐えられるだけの精神力を上役が養っておかねばならない。だが、一見使いやすいように思える犬型社員も、実はしっかりしたトレーニングをしたり、事細かに指示を出したり、と意外に手間がかかる。これから必要になってくるのは、どの社員も持っている猫的要素と犬的要素の配分を、上役が意識してシフトさせていくことかもしれない。それこそ、本来は猫型でありながら犬型の仮面を被っている社員も、日本には大勢いる気がする。それを大胆にシフトし、自由に発想させられれば、それは日本の新しいエネルギーになると思うのだ。
 日本は猫型を必要とする方向に向かっているのに、なぜみんな犬を飼おうとするのか、という疑問があるかもしれない。しかし、よく見てほしいのだが、人気なのは超小型犬ばかりなのだ。あれは、僕に言わせれば、ほとんど猫である。小型犬を猫のようにかわいがっているに過ぎない。やっぱり日本は猫化が進んでいる。僕にはもちろん、歓迎の流れである。


Text=上阪 徹 Photograph=OGATA
*出井伸之氏の連載は本誌では終了しておりますが、ここではバックナンバーの中からWebGOETHEに未収録だったものを蔵出し掲載しています。本記事は2010年8月号に掲載されたものです。