【知られざるヒーロー列伝】トレーニング界の伝説、遠藤光男 まとめ

すごい男がいたもんだ! 話を聞きながら、昔流行した、ビールのコマーシャルのワンフレーズが、脳裏をかすめた。 遠藤光男氏、75歳。戦後、黎明期の日本ボディビル界を語る上で欠かすことのできない人物であり、まだ方法論が確立されていなかったウェイトトレーニングに、独自の合理的なメソッドを導入した、パイオニア的存在でもある。ここに示すのは、そんな知られざるヒーローの物語。    


第1回 三島由紀夫との出会い

いまやトレーニング業界のレジェンドとなった遠藤氏は、自らの身体の弱さを克服するために、トレーニングに目覚めた。高校2年から東京・後楽園ジムに通いつめ、自らを鍛錬する日々。そこでは、大作家・三島由紀夫との運命的な出会いも待っていた。


第2回 三島由紀夫の自決に接し

錦糸町に自らのジムを構える一方で、さまざまな場所に出向いてトレーニングを教えていた。ある時、少し変わった若者集団に絡まれ、話を聞いてみると、彼らは「楯の会」と名乗った。上野駅で見送った、三島との最後の思い出。そして、市ケ谷の報を振り返る。


第3回 横綱7人を輩出

飲みの場では、三島、勝新をも驚かせるほどの酒豪。40年間、朝昼晩と酒を飲み続けたが、身体は衰える様子はなかった。そんな、豪胆な男は力士からも慕われ、トレーニングの教え子から数々の横綱が誕生。今だから明かせる、新事実とは?


第4回 問題児横綱に「喝!」

身長2m。行く末は、大横綱になるはずだった北尾(横綱昇進後は双羽黒に改名)もジムの教え子。もめごとを起こして各界を去った問題児から、ある日「プロレスをやりたい」と告げられると、新日本プロレス入りに尽力したのだが……。


第5回 大横綱たちとの思い出 

各界との縁は続く。ある時は脱臼に苦しむ千代の富士を救い、ある時は暴れん坊横綱の朝青龍の真の姿を目撃。そして、いまや大横綱となった白鵬に対しては、彼が体重80キロ代だった10代の頃から「大横綱になる」と予言していた。


第6回 馬鹿にされても貫いた道

高校卒業時、就職試験の面接で「ボディビルやってます」と言ったら、面接官から「あんなものやったら、身体に悪いからやめたほうがいい」と馬鹿にされ、笑われたという。それでも、身体を鍛えることをやめなかった。そこには、トレーニングを愛するものとしての生き様が現れていた。


第7回 ボディビル日本一への道

サプリメントもプロテインもない時代に、いかにして遠藤氏は日本一の身体を作り上げたのか。試行錯誤するなかでたどり着いた結論は、「雪印の6Pチーズとエビオスをひたすら食べること」。その効果もあって、筋肉量は半年で10キロ増。そうして、24歳の時に初めてボディビル日本一の称号を手にした。


第8回 ボディビル世界大会珍道中

ボディビル日本一になった翌1967年、ミスター・ユニバースというボディビルの世界大会へ。カナダのモントリオールへの一人旅だったが、次から次へとハプニングが発生。チケット紛失、そしてまさかの密航疑惑!?


第9回 ボディビル世界大会で3位に

どうにか世界大会の会場に辿り着いた遠藤氏は、もっとも筋肉が発達しているモスト・マスキュラー・クラスで見事3位に。「周りは全部、ステロイドとかドーピングやってる連中ばっかり」だったという……。


第10回 念願のジム開設

24歳で初めてボディビルの日本一となり、念願だった自分のジムを錦糸町に構えることができた。しかし、ジムにはなぜか5~6人の家出少年が……。仕方なく面倒を見ていたものの、皆に食べさせていたラーメン代のツケが稼ぎの倍を超えたこともあったとか(笑)。


第11回 プロレスラーとの深い絆

国際プロレスで、レフェリーをやっていた縁で、数々のプロレスラーと懇意となった。アニマル浜口、阿修羅・原、毒霧のTAJIRI、そして大仁田厚。でも、「トレーニングで自分に勝ったのは一人もいなかった」。


第12回 ベンチプレス270キロを目撃

「見よう見まねで(笑)」でやっていた国際プロレスのレフェリー時代は、日本人レスラーだけでなく、外国人レスラーのすごさも目の当たりに。スーパースター・ビリー・グラハムは、なんとベンチプレスで270キロ上げたという。


最終回 「身体の張りは心の張り」

半世紀以上のトレーニング生活を振り返り、辿り着いた自分なりの哲学は「身体の張りは心の張り」。75歳となったトレーニング界の生きる伝説がいま、本当にやりたいこととは?