"新1万円札の顔"渋沢栄一はいかにして伝説になったのか?<⑤苦難の銀行開業時代>

1万円札の表面を飾る肖像が、福沢諭吉から渋沢栄一へ。 先般駆け巡ったニュースで一躍、渋沢栄一への注目が高まっている。渋沢研究の第一人者たる島田昌和さんは「福沢諭吉から渋沢栄一への肖像転換は、『民の創出』から『多様な民の共存』への変化を象徴していると言えます。これからの時代に求められる思想が、渋沢栄一の生き方からは大いに読み取れます」と説く。21世紀型経済人のあるべき姿を探るために、壮年期のビジネスパーソン・渋沢栄一の言動をつぶさに教えていただこう。『若き日の渋沢栄一』連載最終回は、ビジネスパーソンとしての苦い始動:銀行業の立ち上げ時代。


1873年(明治6年)33歳。大蔵省を辞め、第一国立銀行開業

官の立場で日本経済の根幹システムを立ち上げた渋沢栄一は、みずから設立に尽力した日本初の銀行へ天下る。金融制度を確固とさせたうえで、各方面の産業を振興し、経営の一画を担うようになっていくのだ。渋沢の躍進と成功の支えになったものは何か。人心掌握術、プレゼン能力、交渉力、いずれにも秀でていたのはたしかだが、最もモノを言ったのは、彼が絶え間なく積み重ねてきた「信用の力」なのは明らかである。

第一国立銀行(明治30年頃)

大蔵省にいた時分の渋沢はだいぶ高圧的、恫喝的な役人のような振る舞いもして第一国立銀行の開設にこじつけました。幕末動乱期を経たとはいえ、江戸時代以来の商家意識、つまりビジネスは個人企業として主人の家によって担われるものからすぐに抜けられるはずもありません。

政府の発行する紙幣を個人企業が担うわけにはいきませんので、渋沢の言う合本、後の共同出資による会社制度で導入したかったわけです。三井と小野という二大豪商に対して「官金取り扱い御用」(大蔵省公金取扱代行)を取り上げることをちらつかせたりしながら、嫌がる両者を半ば強引に国立銀行に引き込んだのでした。

信用力の演出は大事ですので、三井家の新たな総本山として建築の進んだ西洋風建築を第一国立銀行の本店に接収(三井側からの交渉により建築費以上の代金を政府が支払う)したりもしました。

この銀行に渋沢は開設と同時に政府から転出、今でいえば天下る形となりました。こうしてできた日本で初の銀行ですが、その舵取りは苦難の連続だったのです。巨額の出資をした上で渋沢に経営トップに座られた三井と小野は面白いはずもありません。実は小野組は実質的に2人の番頭がそれぞれ別個に事業を預かり、放漫経営をして様々なビジネスや商品相場に手を出していきました。しかも、その原資は第一国立銀行からの無担保融資でまかなわれていたのです。

ついに小野組は資金繰りに窮し、破綻。渋沢の尽力によって第一国立銀行は連鎖倒産をかろうじて免れるという綱渡りだったのです。これには番頭の一人、古河市兵衛が小野組でもうけた全財産をなげうって食い止めたことも寄与したのでした。

もし、この初期のつまずきが政府を飛び出した渋沢への見せしめとして連鎖倒産が回避されなかったなら、泳ぎだしたばかりの日本政府そのものの経済危機、財政破綻になりかねない事態だったでしょう。政府にどこまでその理解があったか不明ですが、小野組の膿を出しつつも、国家財政破綻をギリギリで回避する綱渡りを最初から経験したわけです。

第一国立銀行の錦絵。(島田氏所蔵)

渋沢はいろいろなことを学びました。信用創造でお金を作りだしてもそれを商品相場のような投機に回したのでは何の意味もなく、産業振興への道筋をつけて創造された価値を実体価値に転じないといけない。さらには欧米で大規模に生み出されるさまざまな機械生産による安価な商品に対抗できないといけない。大資本がいるので、株式会社制度を普及させ、華族の大資本から地域の大地主や商人のお金、すべてを糾合し、同時に起業意欲の高い、多少のリスクを恐れない新しいタイプの経営者も育成しなければなりませんでした。

一攫千金を夢見る今でいうベンチャービジネスマンの卵たちにとっては、渋沢に認めてもらい、創立時に名を連ねてもらうことで身元保証にもなったわけです。壮大な民間経済の創出はどこかで偶発的なミスがあっただけでも全部の仕組みが止まるくらいリスクをはらんだものでした。

大正13年6月、来日したタゴールの歓迎会にて。

渋沢の役割は日本に近代ビジネスを普及させることがいかに大事かを説き続け、投資家として経営者として一定程度のリスクを背負う人材を育成し、参加させることでした。同時に立ち上がったビジネスの経営者たちをこまめにウォッチして挽回不能になる前に危険を察知し、適切な処置を施す事を続けたのでした。

もちろん、小さな失敗と損はしょっちゅうでした。大きなトラブルにもいっぱい見舞われました。みんなで損して乗り切ることにまとめられたのはどうしてでしょう。明確な答えはないのですが、渋沢の近代国家建設への強烈な思い、一つ一つのビジネスへの不断の努力、突き放さない粘り強い姿勢、そんなものの集合体なのではないでしょうか。

渋沢はどこでそれを身につけたのか。答えはもう皆さんのなかにあるのでは。「渋沢さんがいてくれたから今の自分がある」。そんないつでも助ける、協力するというシンパを増やしつつあったからではないでしょうか。

終わり


Masakazu Shimada
1961年東京都生まれ。学校法人文京学園理事長。文京学院大学経営学部教授。経営学博士。'83年早稲田大学社会科学部卒業。'93年明治大学大学院経営学研究科博士課程単位取得満期退学。一橋大学大学院商学研究科日本企業研究センターフェロー(2009年4月~'15年3月)。経営史学会常任理事 ('15年1月~'16年12月)。渋沢研究会代表('10年4月〜)。渋沢栄一の企業者活動の史的研究などが専門。'15年、学校法人文京学園理事長に就任。文京学院大学では経営学部教授として、「経営者論」を担当。著書に、『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』(岩波新書)、『原典でよむ渋沢栄一のメッセージ』(岩波書店)、『渋沢栄一の企業者活動の研究−戦前期企業システムの創出と出資者経営者の役割』(日本経済評論社)ほか多数。


Composition=山内宏泰 Photograph=渋沢史料館協力