【連載】石原慎太郎 男の業の物語 第二十二回『男の功名心』


だいぶ以前にリニューアルされた上高地のホテルに招待されたことがある。残念ながらその日、東京に大事な用事があって私は行くことができず、代わりに子どもたちが出かけていったが、とにかく素晴らしい景色で滞在を満喫したということだった。

ということで私も今年の九月はじめに思い立って、車で四時間かけて上高地のホテルに出かけたが、聞きしに勝る絶景で、部屋のテラスから眺めると目の前に穂高の山がそそり立ち、しかもアルプスで一番の難所と言われているジャンダルムが迫って見えた。

ジャンダルムというのは険しい断崖で、ともかく広大な斜面に木が一本も生えていない。そして急な斜面はすべてが瓦礫の連なった岩場だ。

ジャンダルムという名前そのものが「ジャン」は男で、ダルムの「ダ」は英語でいえば「of」、そして「アルム」は兵器ということで、つまり「武装した男」というのは、「兵隊」か「警察官」ということかもしれないが、いずれにしろ素人には近寄りがたい存在に他ならない。

人によればジャンダルムは「人喰い崖」とも言われていて、冒険心か功名心かは知らぬが、その登攀に駆られた登山家たちが何人もそこで遭難して果てたという伝説は眺めるだけでいかにもと頷けるものだった。 

なぜ登山家たちは危険も顧みずにそうした登攀を試みるのかは、男としてのある種の衝動、あるいは我こそはという功名心によるのかもしれないけれども、それに駆られた山での悲劇は数知れずあるものだ。

私の友人の一人に谷川岳の危険な一枚岩の幕岩を初登攀し遂げた男がいるが、その噂が広まると彼に続いて彼とは別のルートでその岩を克服しようと試みる者たちが続出し遭難が絶えなかったそうだが、いったいなぜ峻し ゅん険け んな山を見ると、それを登って克服しようという衝動に駆られるかは、まさに男ならではのものかもしれない。

あのエベレストの登頂を目指し若くして成功したに違いないが、途中で滑落して死んだマロリーがなんでそんな危険を冒すのか問われた時に、「そこに山があるからだ」と答えたという伝説は、危険な山登りを試みる登山家たちに共通した心理、衝動なのかもしれない。

その典型的な例がアルプスの最も危険な山とされているアイガーの北壁を何人もの登山家たちが登攀を試みて失敗し続け多くの犠牲者を出したが、ある年にどこかの企業がアイガーの北壁を克服した登山家に賞金を出すことにし、それに惹かれてその年に何組かのパーティが北壁の直登を目指したものだった。

しかもその麓の村にあるホテルには、その危険な冒険を下から望遠鏡で眺めて楽しもうという観光客たちが押しかけて大変な賑わいとなった。しかし、その冒険に応募した何組かのパーティはすべて途中で挫折して、最後に最強と思われていたトニー・クルツを中心にしたパーティが登攀を試みたものの、これまた四人のうち三人が途中で滑落して死んでしまった。

残されたクルツもやはり途中で遭難し、身体に巻きついたロープで一五〇〇メートル上空に宙吊りになったままもがいていたものだった。ある夜、アイガーの尾根まで山をくり抜いて敷設されている登山鉄道の管理人が夜の勤めとして鉄道の点検のため軌道の上を歩いていた時に、トンネルの途中に開けられた窓から助けを呼ぶ人の声を聞いたものだった。驚いて灯りで窓の外の頭上の壁を照らし出してみると、なんとトンネルの窓からわずか二〇メートルほどの上空に宙吊りになってもがいて叫んでいるクルツの姿が見えた。

驚いた鉄道員は、麓に駆け戻りクルツの遭難を報告して翌日、救出隊がトンネルを伝ってクルツの遭難状況を確かめたが、いかんせん地上から一五〇〇メートルの上空に宙吊りになっているクルツまでの二〇メートルの距離が難関となって手が出せない。励ましの声をかけている救出隊にクルツは必死な声で救ってくれと叫んだが、わずかの中空のその距離がどうにもならない。

そして救出隊が見守る中でクルツは必死に絡まったロープを解いて脱出するために、最後には絡んだロープの結び目を必死に歯で噛んでたこを解こうと努めたが、叶わぬうちに力尽き、救出隊が見守る前でわずか二〇メートル先の、地上から一五〇〇メートルの上空でロープに絡まりぶら下がったまま息絶えてしまった。

その遺体を収容するすべもなく、救出隊は二〇メートルの長さの鉄棒の竿を急遽作ってその先に取り付けた刃物でクルツをぶら下げているロープを切断し、彼の身体を一五〇〇メートル下の地上にまで落としてようやく遺体を収容したものだった。

この凄まじい悲劇が何を意味するかは人によってそれぞれ違うだろうが、いずれにしろ命を落としてまで危険な山登りをするクライマーたちの功名心なり冒険心は男ならではの衝動に違いなく、そうした男の性さ がこそが実は人間のさまざまな発展を導き出し時代を変え、新しい歴史をつくってきたに違いない。

第二十三回に続く

>>>連載【石原慎太郎 男の業の物語】

第二十一回『男の気負い』

第二十回『男の就職』

第十九回『人生の失敗』