牧野洋 日米ジャーナリズムの違い~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<前編>

このLIFE SHIFTで人を取材していて、世の中には格好良い生き方というのがあるものだと感じる。その格好良さはどこから来るか? いろいろあるかとは思うが、一つには、安易に勝ち馬に乗らないということかと思う。結果的にうまくいくことは否定しないが、その時、その時の判断の基準には、目先の利益はない。そういう人に私は格好良さを見出し、結果的に、それがLIFE SHIFTの主人公となっている。そう思う。それで言うと、今回の主人公である牧野洋は際立った格好良さと言って良いのではないか。ちょっと真似できないその半生に、これから迫りたい。

ピーター・フォンダ似の先輩ジャーナリスト

新年が明けた1月5日、JR広島駅に隣接するグランビアホテルに向かった。今回の主人公に会うためだ。ロビーに入ると、「立岩さん」と声をかけられた。約束より15分早かったが、既にその人はティーラウンジにいた。

「お待たせしました」と私が言うと、「勝手に早めに来ていただけですから」と笑った。

牧野洋(59)。先輩ジャーナリストだが、ここはLIFE SHIFTの流儀に則って敬称略でいかして頂く。元日本経済新聞(以後、日経新聞)編集委員で、今はフリーのジャーナリスト兼翻訳家として活躍する。

「苦み走ったいい男」などという言葉は今は使わないのかもしれないが、その言葉があてはまる。端正な顔立ちに無精ひげ。白髪交じりの髪はのびるままに任せているといった感じか。似ていると思うのは、映画「イージーライダー」の故ピーター・フォンダだ。と、思っていたら、昔の話をしている際に「イージーライダー、好きな映画なんですよ」と言われて驚いた。

「『福岡はすごい』読ませて頂きました。面白かったですね」

「ありがとうございます」

2018年に出た「福岡はすごい」(イースト新書)は、福岡の新たな取り組みを自身が長く過ごしたカリフォルニアとの類似点から、その可能性を探っている。面白いのは、福岡を良い事例として紹介することで、日本全体の問題点を浮かび上がらせている点だ。

なぜ「福岡はすごい」だったのか? それは夫人の仕事の関係で福岡に住んでいたからだ。その時に書いたのが「福岡はすごい」。そして今、私が広島にいるのは、夫人の職場が広島になったからだ。その点が、他人……少なくとも私には真似できない凄さ、格好良さなので、そろそろ本題に入る。

牧野は1960年、東京生まれ。練馬生まれだが主に現在のあきる野市で育った。最寄り駅が福生駅だったので、アメリカ軍横田基地のある福生市とも縁が深い。その影響なのか、老舗出版社の雑誌編集長だった父親の影響なのか、かなり早い段階でアメリカへの憧れやジャーナリストへの憧れを抱いていたという。

大学は慶応大学経済学部へ進んだ。大学ではESSに入る。ESSはディベート、ディスカッション、スピーチ、ドラマといったセクションに別れていて、それぞれを英語でこなす。私も一橋大学でESS(一橋大学ではISと呼んでいたが)に片足を突っ込んでいたので知っているが、どのセクションも「文化系の体育会」と呼ばれるほどハードだ。牧野はそこで4年間、ディスカッションに所属したが、逆に「体育会系のノリが肌に合わずあまり熱心ではなかった」と言う。

「でも、良い仲間ができ、今も当時の仲間とは付き合いが続いています」

「イージーライダー」は大学には真面目に通っていたという。

「大学には真面目に通いましたよ。福生駅から毎日、時間をかけて」

福生から三田……それは大変だ。

「早く社会人になって一人暮らししたい、といつも思っていました。ただ、新聞を読むのにはいい時間になりましたね」。

当時父親が自宅で購読していた日経新聞を電車の中で読んでいたという。

日経からコロンビア大学ジャーナリズムスクール

就職は新聞と決めていた。経済を主戦場としたい。それ故の慶応大学経済学部だ。それで日経新聞を受験して合格。1983年、日経新聞記者となる。最初の配属は英文日経だった。英語で記事を書く日々だ。

「海外特派員をイメージして英文日経を希望したのですが、実際はちょっと違いました。でも、ニューヨーク・タイムズ紙やウォールストリート・ジャーナル紙を読む毎日は勉強になりました。すぐにアメリカのジャーナリズムへの憧れが芽生えました」

最初は日経本紙の記事を翻訳するのが主な仕事だったが、時々外国人読者向けに独自記事を書くこともあった。そのうち、英文記者としてスタートしたのなら、中途半端には終わりたくないと思うようになった。目標はすぐに決まった。ジャーナリズム教育の世界最高峰とされる米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール、通称Jスクールへの留学だ。何しろ、当時としては異例だったのだが、小さな英文日経編集部の上司の中にJスクール出身者が3人もいたのだ。職場で日ごろからJスクールの話を聞かされ、牧野はますますアメリカのジャーナリズムへの関心を強めた。

面白いのは、そこからだ。

「そこで、会社に無断で1年以上前から準備し、勝手に受験したんです。TOEFLを受けて、エッセイを書いて。そしたら合格しちゃった。それで会社に行かせてくれと言ったんです」

たまたま当時はバブル絶頂期の1980年代後半で、その追い風を受けて日経は英語での情報発信の強化を目指していた。当時のキーワードである「国際化」だ。これが幸いし、上司に留学の意向を伝え既に合格を得ていることを伝えると、叱られるどころか、とんとん拍子で話が進んだ。そして会社派遣の留学でJスクールへ。これが牧野にとっての最初のLIFE SHIFTだった。

後述するように牧野はその後、日経に反発を覚えて辞める。それでも、「留学を認めてくれた日経には今も感謝している」と話した。

ところが、と言うべきか、やはりと言うべきか、その留学生活は過酷なものだった。英語で書いたり読んだりするのは大学時代だけでなく、新聞記者としても経験済みだ。「Jスクールはスパルタ教育で有名」と聞いていたが、それなりになんとかなると思っていた。だが、その自信は直ぐに崩れる。開校初日のオリエンテーションでいきなり指導教官から課題を与えられたのだ。

「ブルックリンの行商人について取材して明日までに記事を提出せよ」

「ブルックリンってどこだ?」から始まってやっと現地に入って取材するが、プレッツェルやネックレスを売っている行商人は「このネクタイ姿の東洋人は誰?」といった表情を見せるだけで、誰も取材には応じてくれない。それでもプロの新聞記者が「書けない」とは言えない。地元の商工会議所を探して飛び込むが、なしのつぶて。憔悴しきって大学に戻る。それでも、となんとか商工会議所の関係者に電話取材をして記事を出す。で、ボツ。ボツとはつまり、却下だ。

「当事者、つまり行商人の取材がないということで、ボツでした。当事者の取材のないものはダメだ、と。関係者取材というのは、基本的にダメだということです。頭ではわかっていた日米の違いを初日に突き付けられた感じでした」

日本では当事者取材なしで記事を書くのは、良いか悪いかは別にして普通に行われている。失業者に直接取材しないで失業問題を書いたり、納税者に直接取材しないで税金問題を書いたりする。関係者にすぎない官僚やエコノミストに取材するだけで記事を書いてしまう。それはダメだということだ。留学時代は、その日米の違いを突き付けられる繰り返しだったという。

例えば、日本人学校を取材してフィーチャー記事を書く課題だ。学校に行って教師や校長に話を聞いたり、教育の専門家を電話取材したりして記事を書いた。数字も入れた。学校側の狙いを書くのが日本では普通だ。しかし、当然の様にそれはJスクールでは、否、アメリカではボツとなる。

「これではまるで当局発表のプレスリリースみたいだ」

指導教官は厳しい表情でそう言った。

「当局発表のプレスリリース」。まさに、これこそ、日本の新聞記者が日々記事にするものだ。霞が関の役所から全国の市町村の庁舎の掲示板まで、日々、あらゆる記者発表が貼りだされる。それを記事にすることに追われるのが日本の記者の姿だ。指導教官は続けた。

「学校の主役は子供なのだから、子供に取材しない記事は成立しない。校長や教師の話は付け足し程度でいい。学校にもう一度行って、授業の様子を丸一日かけて見てきなさい。そしてできるだけたくさんの子供に話し掛けなさい。その際には子供と目線を同じにすること。それともう一つ。キャンディーを持っていくといいですよ」

最後は笑顔で言ってくれたが……。

「やっぱり、衝撃でした。日米のジャーナリズムの違いをこれでもかというほど突き付けられた日々でした」

これには後日談がある。日本人学校を取材し直して指導教官から今度はOKしてもらえた。日本に関係した記事だったので、英文日経にも掲載してもらった。ところが、紙面を見てびっくり。丸一日かけて授業の様子を観察した部分がばっさりカットされ、ボツにされた「リリース記事」へ逆戻りしていたのだ。

「アメリカと比べて言うと、日本の新聞は市民目線を忘れがちです。それは日本のマスメディアに特有な記者クラブ制度とも密接に絡んでいると思うんですが、どうしても政府などの『当局』の発表を書くことが主眼になってしまう。そして、市民がどう考えているかという報道にはならない……」

その「当局」とは、コロンビア大学初日の課題で言えば、「商工会議所」や「学校の教師や校長」ということになる。それらは、物事を作る側の人々であり、それによって影響を受ける人たちではない。ジャーナリズムとは、影響を受ける人の側から考えないといけない。牧野は、アメリカのジャーナリズムに本物を感じた。

コロンビア大学時代

そういう日々にも終わりは来る。なんとか無事に卒業して帰国した。NHKから留学した私もそうだったが、派遣留学は会社に報告書の提出を求められる。牧野は報告書をまとめ、それは後に、日本のマスメディアの構造的な問題などに切り込んだ「官報複合体」(講談社)として本になっている。

帰国、そして再び海外へ

牧野は帰国後、英文日経を経て証券部に異動。証券部とは兜町を中心に、マーケットを取材するということだ。コロンビア大学で市民目線でのジャーナリズムを学んだ牧野だが、「郷に入れば郷に従え」となることはやむを得ない。特に日経は経済記事で他社に後れをとることは許されない。となると当局取材を徹底する必要がある。機関投資家や証券会社、上場企業、東京証券取引所の幹部らを取材。そうした中で、他社を慌てさせる一面記事を書かなければならない。

しかし、コロンビア大学で学んだことは骨の髄に染みていた。やがて、取材の対象は株主へと移っていく。あたかも、株主の権利が言われ始めた時期でもある。牧野は1990年代初め、株主代表訴訟についてのニュース記事を初めて日経新聞一面に書いた記者となる。当時は株主代表訴訟という言葉を知っている人間は日経社内にもほとんど存在しなかった。93年には同僚と一緒に共著「株主の反乱」も出版した。株主代表訴を正面から取り上げた本が出たのも初めてのことだった。

1994年9月、牧野のもとに米ノースウェスタン大学ロースクールから冊子と手紙が送られてきた。ノースウエスタン大学とはアイビーリーグと並ぶ名門大学だ。冊子は日米の株主代表訴訟制度をテーマにした学術論文で、その中で「株主の反乱」に触れて「日本の株主代表訴訟を包括的に取り上げた初めての本」と紹介していた。手紙は論文の筆者マーク・ウエストによるもので、そこには「あなたの記事は大変役に立ちました。本書でも引用させていただきました」と書かれていた。

まさに、日経で記者としての人生を謳歌しているという感じだ。

「やりたい放題だったんですね?」

そう水を向けると、「そうですね……でも、そんな感じでした」と言って苦笑いした。

そして再び、海外へ出る。それも牧野の希望だ。スイスのチューリヒ支局長になる。93年、ちょうど入社して10年目だ。「そこで当時、日本では知られなかったプライベートバンクについて取材しました。それまでに日経新聞もあまり取材していなかった未開拓分野。知られていないからこそ本になるとにらんだんです」

富裕層向けの銀行業務だ。プライバシー保護が徹底したスイスの銀行には世界の富裕層から資金が集まっていた。それがプライベートバンクだが、当然、裏の顔もある。マネーロンダリングだ。まだ日本ではあまり語られていなかった国際金融の光と闇に入社10年目の牧野は切り込み、日経金融新聞に何度も連載を書いている。

牧野はコメントにあるように、既に、本を書くことを自らの目標に掲げるようになっていた。当然、この連載も本にしたい。「プライベートバンク」、「マネーロンダリング」……いずれも、今後の日本と無縁ではない。しかし出版化は当時の上司の判断で叶わなかった。

チューリッヒ支局長時代。

最強の投資家を取材

それでも、チューリヒ支局での記事は国内銀行界ではよく読まれ、社内でも好評だった。それが次の道につながる。ニューヨーク総局への異動だ。ニューヨークのウォール街担当は牧野自身も在籍した兜クラブのキャップの指定ポストだったが、チューリヒからニューヨークへの異例の横滑りとなった。1996年のことだ。

日経新聞のニューヨーク総局の編集部は当時現地採用も含めて15人前後。そこで牧野はウォール街を担当する取材チームのキャップとなった。ウォール街と言えば世界の金融の中心地だ。それは刺激に満ち溢れた日々だったのだろうと思ったら、牧野は意外なことを言った。

「ウォール街の取材は忙しいし、毎日の様に記事を求められるんですけど、ここを取材しても本にはならないんですよ」

「え? 本ですか?」

「ええ」

本にするには独自のテーマや切り口が必要だ。日々の動きを追う取材からは、そうした深い内容を取材するのは難しいということだ。牧野にとって、既に新聞記事そのものより本の執筆がメインになっていた。

「プライベートバンクの本が実現しなかったから、なおさら本を書きたいという思いが強くなっていました」

実はこれはアメリカのジャーナリズムの世界では、極めて自然なことだ。私自身、NHKに入って17年ほどしてアメリカに留学し、アメリカのジャーナリストと付き合うようになったが、10年以上の経歴のジャーナリストで著書がないというのはアメリカでは珍しかったと思う。当時の私は著書など1冊もないNHK記者だ。これは日本ではさほど異常なことではないが、アメリカでは珍しい。新聞記者は新聞記事を書く以上に、自著の出版にこだわる。それが自身の記者としての評価にもなる。

そこで、牧野は一計を講じたと言う。

「ウォーレン・バフェットに注目したんですよ。当時日本で彼の知名度は低く、彼についての本も出ていませんでした。だから常時ウォッチしていけば、必ず本になるチャンスがやって来ると考えたんです」

ウォーレン・バフェット。天才的な投資家として知られ、その発言がメディアで取り上げられることも多い人物だ。ただ、そう簡単に接触できるわけではない。牧野の主な仕事はアメリカ市場であり世界のマーケットの動向を取材することだ。その合間のぬっての取材となる。それでも、アンテナを張り巡らせることで、この投資家の行動半径を絞ることは可能だ。

ウォール街の取材の合間に取材したのがバフェットの会社の株主総会だ。ニューヨーク赴任から2年目の1998年のこと。ネブラスカ州オマハにあるバークシャー・アザウェイ社で開かれる総会で、バフェットが個別の取材に応じるという話になった。しかし大物だけに全米の記者が集まっている。日本から来た記者に割り振られる時間はあるのだろうか……と考える間もなく滑り込んだ。そして単独取材に成功。日本のマスコミとの単独インタビューは初めてのことだった。直接取材ができたことで、ニューヨーク総局勤務の3年間で本にできるだけの取材を終えることができた。

そして帰国。ただ、まだ本は書けていない。是非とも本を書きたい。否、書かなければ意味がない。そこで牧野は、帰国後の異動に際して、通常とは異なる希望を出す。ニューヨーク総局のウォール街担当は証券部のポストだから、通常は証券部に戻る。証券部は花形でもあるが、それだけに忙しい。

「証券部に行ったらバフェットを本にできないかもしれない」

そう思った牧野は帰国後の異動先に「日経ビジネス」と書く。勿論、理由は本だけではない。

「雑誌はいろんな取材ができて、ジャーナリズム的にもいろいろ自由があると思いました」。

そして、またこれが認められる。

「本当に、やりたい放題ですね?」と言って笑うしかない私。

「ええ……そうですね。とても恵まれていたと思います」と言って苦笑いで返す牧野。

1999年に帰国。そして日経ビジネスに行って、その年に念願の単著を出す。「最強の投資家バフェット」(日経ビジネス文庫)がそれだ。これが評判を呼び、9刷まで重版がかかった。考えてみると、バフェットはなぜか「最強の投資家」と評されることが多いが、ひょっとしたら牧野の本の影響によるものかもしれない。

牧野は、このニューヨーク赴任時に知り合った日本人女性と結婚する。彼女は牧野と同じコロンビアのJスクールで学んだ後に日経のニューヨーク総局で現地採用記者として働いていた。この後、牧野は自身がアメリカで学んだ市民目線のジャーナリズムを実践して日経で孤立していく。その際、この結婚が、牧野の新たな選択を可能にする。否、牧野は言った。

「そういう相手しか結婚相手には考えていませんでした」

「そういう相手」とはどういう相手なのか。そこで牧野はどういうLIFE SHIFTを見せるのか。

後編へ続く

立岩陽一郎
立岩陽一郎
調査報道を専門とする認定NPOを運営「ニュースのタネ」の編集長。一橋大学卒業。NHKで初めて戦場特派員としてイラク、クウェートを取材。社会部記者、1年間の米国留学の後、国際報道局デスクを経験するなど華々しいキャリアを築くも「パナマ文書」の取材を最後に49歳にしてNHKを辞職しその翌日渡米。現在は公益法人「政治資金センター」理事や毎日放送「ちちんぷいぷい」のレギュラー・コメンテータ、ニュースメディアへこれまで培ってきた報道の世界の鋭い目線で記事を提供するなど活動の幅は多岐に渡る。『トランプ王国の素顔ー元NHKスクープ記者が王国で観たものは』などの著書がある。近著は『トランプ報道のフェイクとファクト』。
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