作家 北方謙三 不可能を可能にした男 限界の先にある限界まで自分を追いこんで火事場の馬鹿力を絞り出す

圧倒的な執筆量を誇る作家の北方謙三さんは、自身の仕事について「限界の限界まで自分を追い込んだ時、とんでもない力が湧いてくる」と言う。絶対に無理といわれようと、やり遂げる。そこにはどんな覚悟と誇りがあるのか。今回は、各界の常識をくつがえし続ける男たちの、その独自のスタイルに注目した。

 毎月1冊、年12冊の新刊を世に送り続け、編集者や読者から畏敬の念を込めて「月刊北方」と呼ばれた30代。そして、40代からは前人未到の“水滸伝シリーズ全50巻”へ――。還暦を過ぎてなお、途方もない戦いに挑み続ける作家、北方謙三。まさに不可能を可能に変える、そのマインド=極意とは――。

「作家に限らず、すべての創作活動を左右しているのは、潜在能力。よく“火事場の馬鹿力”っていう、あれだね。で、その火事場の馬鹿力=潜在能力を継続化できたヤツだけがプロになれる、不可能を可能に変える仕事を成すことができるんだと、俺は思う。じゃあ、どうしたら潜在能力が継続化できるようになるかといえば、これはもう、自分にプレッシャーをかけて、とことん追い詰めるしかない。俺の場合なら、15時間、16時間、真っ白い原稿用紙に一字も出てこなくても、ひたすら机に向って万年筆を握り続ける。そうすると、ある時からぶわっと潜在能力が出てきて、昼なのか夜なのかも、わからない状態で書いてる。例えば“月刊北方”と呼ばれた頃は、三日三晩寝ずに書き続けて、ぶっ倒れて寝ても、夢の中で原稿を書き続けてたこともあったよね(笑)」
 肉体も精神も限界の限界まで追い詰める。それを、北方さんは、“死域”の境地だとも言う。
「“死域”というのは、『水滸伝』の中で書いた言葉で、もともとは柔道をやってた時に経験した体力的な感覚なんだよね。死の一歩手前の意識も半ば失った状態、それでも立つと、普段の能力を超えたすごい力が出ることがある。でも、その“死域”は精神的にもあって、もしかしたら、俺はそれで書いてるのかもしれない。限界の先のもうひとつの限界=死域になって初めて自分の潜在能力=想像力がぶわっと出てきて、最近なら『抱影』とか、2週間で530枚の書き下ろしも書けたりするのだと。ただ、そんな時は気がつくと右腕が麻痺して万年筆が手から離れなくなってるけどね(笑)」

全50巻に挑む『水滸伝』もここから生まれた!全50巻に挑む『水滸伝』もここから生まれた!/ほとんど書き直しがない驚異の自筆原稿。

のたうちまわった10年があったから、今がある

 万年筆が手から離れなくなるほどの凄まじい死域にまで自分を追い込んでの仕事。だが、それでも諦めそうになった時、北方さんはそこをどうやって乗り越えてきたのか?
「どんなに根性出しても倒れそうになった時は、とにかく、俺は石なんだと自分に言い聞かせる。石がダイヤモンドと同じように光るためには、百倍も磨かなきゃいけない。だから、石の俺はとにかく書く=自分を磨き続けるしかないんだ、とね」
 数々の大作をものし、作家として揺るぎない地位を築いた今も、「自分はダイヤではなく石だ」と断じる、そのマインド。たぶん、それこそが、男・北方の不屈の核にあるものだ。

歴戦の証であるペンダコのある右手に握られた万年筆/井上ひさしさんから贈られたもの。

「本当に、俺は一度も自分に才能があると思ったことはないんだよね。だって、才能のあるなしなんて一生涯仕事をして、死んだあとにやっと判断できるような問題だろ? だから自分に才能があるなんて思ったら、その時点でもうダメだと思う。で、俺の場合、そのマインドを鍛えてくれたのは人生、特に20代~30代前半の10年間なんだよね。大学時代に純文学で作家デビューしてからの10年、書いても書いても“才能がない”と言われ続けた。のたうちまわり、気づくと、万年筆を握り潰してたこともあった。でも、ひたすら自分の文章を磨き続けた。馬鹿で純粋で一途で、あの頃のエネルギーは今よりももっとすごかったと思う。だから、あの10年は俺の長い青春。そして、俺の潜在能力を鍛えてくれた、本当に必要な時間だったんだよね」

Kenzo Kitakata
1947年佐賀県生まれ。作家。'73年中央大学卒。'70年、純文学『明るい街へ』でデビュー。'82年『眠りなき夜』で日本冒険小説協会大賞、吉川英治文学新人賞受賞。'91年『破軍の星』で柴田錬三郎賞受賞。'04年『楊家将』で吉川英治文学賞、'06年『水滸伝』で司馬遼太郎賞受賞。近著に自身の祖父を描いた『望郷の道』他がある。

Text=中沢明子 Photograph=三浦憲治

*本記事の内容は11年10月1日取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい