信長見聞録 天下人の実像 ~第十四章 寧々〜

織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

信長のコトバ:「こんとハこのちへはしめてこし、けさんニいり、しうちやくに候」

「おほせのことく、こんとハこのちへはしめてこし、けさんニいり、しうちやくに候」

という書きだしで始まる、信長の手紙が残っている。仮名書きなのは、女性に宛てて書いた手紙だからだ。冒頭に「仰せのごとく」とあるから、返信なのだろう。その次は「今度はこの地へ初めて越し、見参に入り祝着に候」。仰るとおり、あなたが初めてこの地に来て、会えたことを祝着だと喜んでいる。

この地とは安土だ。琵琶湖畔の安土に築城が開始されたのは天正四年一月。巨石で安土山全体を覆うがごとき大土木工事を経て、天守閣が完成するのは三年先だが、気の早い信長は翌月には岐阜から移っていた。

つまり、これはその安土に信長を訪ねた女性が書いた礼状への、信長の返信なのだ。祝着に候のあとはこう続く(原文は仮名書きだが、以下適宜漢字をあてはめ、表現を一部改める)。

「ことに土産色々美しさ、中々目にもあまり、筆にも尽くし難く候、祝儀は仮にこの方よりも何やらんと思い候へば、その方より見事なる物もたせ候間、別に志しなくのまま、まずまずこのたびは止め参らせ候、重ねて参りのときそれに従うべく候」

女性からの土産を絶賛し、お返しに何かを贈ろうと思ったのだが、その見事さに見合うものが思いつかない。今回はやめにして、次にあなたが訪ねてきた時に贈る、と言うわけだ。

足利義昭を追放し、名実ともに天下人となった信長の下には世の金銀財宝が蝟集していた。返礼品に困るはずはないが、信長は時々こういうことを言った。贈り物の見事さに見合うものを思いつかなかったというのは、おそらく信長の本心だ。

信長の価値観は独特で、いつもその価値観に基づく自分の美意識に忠実だった。彼は人から無数に物を贈られたが、自分の気に入った物しか受け取らなかった。それは自分が人に物を贈る時も同じだった。武田信玄が信長からの贈り物に感心した話が残っている。物を贈るという行為でさえも、信長にとっては命がけの真剣勝負のようなところがあった。

女性が何を信長に贈ったのかは明らかでないが、それは単純に美しいだけでなく、信長の性質を知り抜いたうえでの機知に富んだ贈り物だったのだろう。

その機知に見合う物を思いつかないと、信長は言ったのだ。

この才智ある女性は寧々、つまり秀吉の妻だ。この時期、秀吉は信長によって近江長浜の城主に取り立てられている。その妻の寧々が、信長を訪問した。どんな会話があったのかは、手紙の続きから推測できる。

「あなたの容姿は、いつぞや拝見した折より、十のものが二十も勝っている。藤吉郎がくどくど不足を申し立てるなど言語道断だ。どこを探しても、あなたほどの妻を、二度とあの禿鼠が迎えるのは難しいだろう」

藤吉郎すなわち秀吉は、長浜城主となると間もなく側室を抱えている。おそらくはそのことに関して、正妻である寧々と何か言い争いがあったのだ。信長が寧々の容貌をますます美しくなったと持ち上げているのは、その夫婦喧嘩を信長に話したからだろう。あの禿鼠はどこを探しても、もう二度とあなたほど美しい妻とめぐり会うことはあるまいと、寧々を持ち上げたわけだ。秀吉の渾名は猿が有名だが、信長が呼んだこの禿鼠のほうが風貌が目に浮かぶ。

手紙の最後に、信長はこの書状を秀吉にも見せるようにと書き、公印である天下布武の朱印を捺している。話を聞いたぞと、寧々のために秀吉に釘を刺してやったのだろう。意外だが、信長は気遣いの人でもあった。

※『織田信長文書の研究 下巻』(吉川弘文館/奥野高広著)189ページより引用

Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」