【ONE】秦アンディ英之がONEチャンピオンシップの日本社長に就任した理由とは?<第4回>

3月31日。東京・両国国技館。この日、アジアを拠点とした世界最大の格闘技団体「ONE チャンピオンシップ」が「ONE: A NEW ERA -新時代- 」を開催。世界140ヵ国26億人以上が毎回の大会開催に熱狂し、アジア各国では圧倒的な支持を集めてきた「ONE」がいよいよそのヴェールを脱ぐ。日本開催を実現させたONEチャンピオンシップ・ジャパン代表の秦アンディ英之に、どんな経緯でONEを率いることになったのか話を聞いた。

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プレーヤーとしてではなく裏方からスポーツを支える

秦アンディ英之の人生の価値観を大きく変えた1999年ライスボウルでの日本一。その試合はあらゆる意味で、その後の人生の進路を大きく変える出来事だった。

「あの日本一決定戦ですが、実はお客さんが入らず、スタンドがガラガラだったんです。衝撃でしたね。それまでライスボウルといえば毎年必ず人が入っていたのに、当時は学生が社会人には敵わないという見方やプロモーションをしていない時代背景など、いろんな事情が重なってその年はまったく入らなかった。選手がこれだけ頑張っているのに、スタンドは空席ばかりで……寂しいなと思ったんです。選手としてもう1年やれば、もっと上を目指せる、楽しくできるという思いはありました。でも幸い、同じ年代には優秀な選手がたくさんいたので、ここでプレーヤーとしての夢は彼らに託して、自分は裏側から彼らを助ける存在になろうと、身を引く事を決めました」

小さなころから好きで続けてきて、日本の最高峰のレベルまで成長し、自分の人生になくてはならない存在だったアメフト。そのプレーヤーとしての志を道半ばで断ち切った決断は、後の人生における行動力の源となっていく。

「現役って一度辞めたらほぼ2度と戻ってこられない世界。アメフトは僕にとってかけがえのない大事なものでしたから、そこで“辞めた”という事実が、今現在もエネルギーの源になっているんです。だから今どんなことが起きても、誰がなんて言おうと『えっ、そんな気持ちでやめたっけ?』という思いが、常に動き出すんです。どんな困難が立ちはだかろうと『僕は何のために裏方に入ったんだっけ?』というスピリッツがあったから、これまでステップアップしてこれたんです。このスイッチさえ入ってしまえば、もう待ったなし、ですよ」

選手を引退した時は20世紀の終わり。2002年にサッカーW杯の日本開催を控え、スポーツビジネスの風が徐々にヒートアップしていることも肌で感じていた。その当時に出会った各スポーツ界の主要人物たちから受けた影響も大きく、スポーツの世界を変えていくという情熱はアンディを衝き動かして行った。

「当時の僕はまだソニーにいたんですけど、会社の中にはゴルフの「ソニーオープン」などを管轄するスポーツの部署があって、そこに異動できないかとお願いしたんです。ただ最初は「あなたはビジネスマンじゃないかんだから、スポーツをやっていればいい」と却下されて。悔しかったですよ。その後、仕事で結果を残してから、もう一度お願いしてやっとその部門に入ることができた。だけど喜んだのも束の間、転属されて6ヵ月でその部署は潰されてしまうんです。失意のうちに会社を辞めようかと考えていたところに当時の役員の方が『君が本当にソニーでスポーツをやりたいのならアメリカでビジネスを勉強してきなさい』と、アメリカのソニー社長付きの秘書的なポジションに就かせていただいた。僕に求められたものは客観視する能力。そして業界を動かせるノウハウを手にしなければいけないということで、一旦はスポーツだけに限定せず、もっとダイナミックなビジネスマインドを必要とする、経営の部分に携わらせていただきました」

アメリカで470中1人しか日本人がいないなか、社長に付いてビジネスや経営について濃密な時間を過ごしはじめたアンディだったが、ひとつだけ満たされない思いがあった。

目の前にはMLBやNFL,NBAやらアンディが望む世界が据えられているのに、なかなか触れることができない。思うように行かないジレンマで、日々落ち込み、欝々としていたアンディ。ある日ゴルフに出かけると隣のコースから飛んできたボールが頭を直撃。ポーンと大きく跳ねたボールの映像を最後に、気が付くと救急車で搬送されていた。

3月28日に行われた記者会見で熱くスピーチ。

「運ばれている最中に考えるんですよ。この広いゴルフ場で小さなボールが頭にあたるなんて、とんでもない確率ですよ。結局僕がそういった負のものを引き寄せるオーラを出していたんじゃないか。こんな理由で死んでしまったらシャレにならないですよ。これは神様からのゲンコツだと思い、その日から気持ちをガラッと切り替えました。どうせ仕事をやるなら気持ちをいれてしっかりやる。そう思い出したらすべてが好転しだして、当時のミッションを全うして1年半後には社長賞を貰えるほどの結果も出せるようになった。

さぁ、次のステップに進もうというとき、ソニーが340億円を払って2010年のサッカーW杯とスポンサー提携したという連絡が来たんです。日本に帰って来てくれと。僕自身、サッカーのことはそれまであまり詳しくなかったですし、家族はそのままアメリカに永住したいと思っていたようですが、やはりスポーツの世界に身を置きたいという思いが強く、2006年に日本へ帰国しました」

日本へ戻るとW杯に向けての準備をはじめた。帰国後、新しい部署に出社すると、ホワイトボードの前に同僚となる2人がうなだれていた。「アンディ、正直言っていいか」。意を決したように告げられる。何ごとか。「おれら、何をやっていいのかわからないんだ」。アンディは笑ってしまった。

「ああ、なるほど、でした。これが日本企業のスポンサーシップへの理解であり、今時点でも起きている実態なんですよ。340億円も払ってスポンサーシップを結べば、聞こえはいいですが、実際に何をしていいかわからない。そこで買った権利を勉強してベストケースをドイツまで学びに行くと、帰国後は関連会社や地域に教育的キャラバンを行いました。最終地点の南アフリカに向けて世界各国を飛び回っていると、サッカーを通じて人種性別年齢宗教関係なく好きなものの共通概念が繋がることを痛感しました。

そしてFIFA(国際サッカー連盟)はやはり最先端のスポーツ組織でしたね。日本でも2002年で全国各地にスタジアムを造り、Jリーグというノウハウを一緒になって作る循環する仕組みを国単位で考えていますし、動き方も考え方もダイナミックでした。アメリカは単一国家として成立していて、最近でこそNBAが中国に行って成功を収めていますが、国を跨ぐと意外と『おまえら俺のところに来いよ』という中央集権型になる。メジャーリーグもそうですし、UFCも日本に来ても、すぐに帰ってしまいますよね」

2010年のW杯を無事終えると、アンディは更なる飛躍を求めて世界最大のスポーツリサーチ会社から声を掛けられる。

「ソニーを出たことは、次のブラジルW杯で同じ人間が2巡目をやるよりも別の人に託した方が進化するんじゃないかということ。そして、スポーツの効果測定をするレピュコム(のちのニールセン)というオーストラリア発祥の会社から日本で立ち上げをしないかと誘われたんです。ちょうど2010年を振り返った時に、データの活用や効果測定の文化がまだ発達しておらず、プレゼンをするにも説明がなく評価もされないことに大きな不満を感じていたんですね。そんな時にこの話が来たものですから、やりますと承諾しました。

立ち上げは2人でカバン持ち歩いて日々営業して回ったんですが、当時の日本ではまだ理解も少なく、『データなんて測定したくない』『余計なことをするな』と門前払いされていました。そんな時にJリーグにビジョンを持った人がいて、一緒にやりはじめてからは、トントン拍子で理解度が広がって来て、今では『あ、やっとここまで来たかな』というところまで来ました。自前で回すことができる仕組みもできた。自分も次のことをやらなきゃいけないということを考え始めました。2020年までもう500日になったので、今よりも2020年以降の先を考えたビジネスに展開していく必要がある。そんな時にONEという団体と出会いました」

2018年の5月。シンガポールでニールセンとONEの共催で行われたスポーツカンファレンスにアンディはニールセンのアジア代表のスピーカーとして出席。その席上にメインスピーカーとして登場したのがONEのチャトリCEOだった。

CEOのチャトリ・シットヨートン氏。

「彼が話していることは、今の経営者と呼ばれる人たちにはなかなか見られない興味深いものでした。たとえば『PHD』(Poor・Hungry・Determind)など、言葉の一つ一つが、情熱に溢れ、経営者として自分に考え方がとてもよく似ている。面白い人だなという印象を受けました。その後、ヘッドハンターの方から『ONEという組織があるが興味はあるか?』という話をいただき『あれ? 聞いたことがあるな』というのがはじまりです。

第5回に続く


Hideyuki Andy Hata
1972年生まれ。アメリカと日本を往復する少年時代を過ごしたのち、明治大学を卒業し、ソニーに入社。ソニーで働く傍らアメリカンフットボール選手として、名門アサヒビールシルバースターで活躍(リーグ優勝も経験)。米ソニー在籍時にはスポンサードしていた2010年サッカーW杯の広告戦略等にも携わった。その後、世界的なスポーツ専門の調査コンサルティング会社、ニールセンスポーツの北アジア代表兼ニールセンスポーツ ジャパンの代表を務める。2018年12月、ONEチャンピオンシップ・ジャパンの代表に就任。


Text=村瀬秀信 Photograph=太田隆生