城をクラブ経営に導いたきっかけは、あの川淵三郎だった【GM城彰二物語⑤】

信頼する先輩であり、前任者でもあった藤川孝幸の死をきっかけに、2019年、城彰二は、突然北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャーに就任した。所属はまだ、社会人リーグ。スタジアムはもちろん、決まった練習場さえもない。スポンサーヘの営業、自治体との連係、クラブ運営など、すべてを行わなければいけない。北海道室蘭市で生まれ、中学1年まで過ごした城の目標。それは、北海道にJリーグクラブをゼロから作ること。連載「GM城彰二物語」、第5回。

連載【GM城彰二物語】1回目の記事はこちら


「現場をやる前に、クラブ経営などを経験し、視野をもっと広げたほうがいい」

1993年。鹿児島実業高校3年時に、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグがスタート。空前のJリーグブームのなか、僕はジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉・市原)でプロデビューを果たした。

デビュー戦から、4試合連続ゴール。僕自身もその波(ブーム)に乗った。‘96年アトランタ五輪、’98年W杯フランス大会出場。横浜マリノス(現横浜Fマリノス)に移籍すると3シーズン連続で二桁ゴールをマークし、スペインのレアル・バリャドリードへレンタル移籍したのは2000年。Jリーグの契約規約が今とは違い、多額の移籍金が生じる時代でもあり、欧州での日本人選手の評価もまだまだ低い時代だった。レギュラーとしてプレーしたものの、怪我もあり、約半年後に帰国を余儀なくされた。

しかし、横浜に復帰しても、負傷を繰り返し、ストライカーとして重要なゴールという結果から遠ざかった。‘02年にヴィッセル神戸へレンタル移籍し、環境を変えたものの、評価を得られる活躍はできなかった。そして、そのシーズン終了時、神戸との契約延長は叶わず、横浜との契約も終了。僕は初めて「戦力外通告」を受けることになる。

当時の僕はまだ27歳。引退を考える年齢ではなかった。しかし、J1からのオファーはなく、J2の横浜FCへの移籍が決まった。1998年に設立された横浜FCは、翌‘99年よりJFLに参戦し、2000年からJ2で活動する歴史の浅いクラブ。当然成績も芳しいものではなく、下位争いが定位置といった状況だった。当時はまだJ3降格がなかったけれど、J1昇格を願うサポーターの想いに答えたいと思った。

Jリーグブームは徐々に陰りを見せ、30代を目前にした選手の多くが「リストラ」されるような時代。横浜FCの予算は当然J1とはくらべものにはならない。決まった練習場もなく、プレーする環境もまた劣悪だった。もちろん、給料もわずかだ。自分が立つ環境が激変したことを痛感した。

しかし、「サッカーができる」という純粋さを持ち、懸命に闘うチームメイトの姿は、僕に新しい刺激を与えてくれた。そういう集団で、3年間キャプテンを任された。いろいろな気持ちや考え方を持つ人たちを受け入れながら、団結するチーム力を実感し、僕自身が人として大きく成長するきっかけを横浜FCで与えてもらった。

そして、‘06年三浦知良さんと2トップを組み、J1昇格が決まった時点で、僕は引退を決意した。痛めた膝が限界だった。J2優勝カップを掲げられた感動は今も忘れられない。31歳だった。

プロサッカー選手を引退したあと、自分は何ができるのか、僕が抱いたのは漠然としたイメージだけだ。「サッカー界に貢献したい」という想いだけが強くあったが、具体案はなかった。プロサッカー選手も仕事をしている社会人ではあるが、一般社会とは別世界で生きてきた。だから、これからどういう仕事をするにしても、「僕は右も左もわからない社会人1年生だ」という自覚はあった。とにかく、勉強するしかないと思った。

「おはようございます」「こんにちは」「ありがとうございます」

まずはキチンとした挨拶を心掛けた。サッカー界でのあいさつでは通用しない。

日本テレビから、試合の解説者としての仕事をいただくことが決まったときは、アナウンサーを育成する学校に通った。サッカーのことは知っていても、話すのは素人だから当然だ。

どんな現場にも「学び」がある。貪欲に学びたいと思った。失敗しながらも、成長するには、勉強して学ぶしかない。

それと平行し、指導者としての勉強も続けた。‘09年プロチームの監督が行えるS級ライセンスを獲得した。しかし、実はすぐさま監督業に就きたいという強い気持ちはなかった。

「城は監督をやりたいのか?」

「はい、現場をやりたいとは思っています」

「それも大事かもしれないけど、クラブ経営などにも目を向けたほうがいいぞ」

引退から1年くらい経ったとき、初代Jリーグチェアマンであり、日本サッカー協会名誉会長も務めた川淵三郎さんから言われた。ジェフ市原の母体となった古河電工でプレーされた川淵さんは、組織の長としてマネジメント力を発揮されてきた。そんな川淵さんの言葉は、衝撃でもあった。

現在では、コンサドーレ札幌社長の野々村芳和さん(野々村さんはジェフ時代の先輩)をはじめ、元Jリーガーがクラブ経営を担っているケースは増えたが、僕が引退した当時は、現役引退後には、解説者か指導者という道が主流だった。

しかし、川淵さんの言葉によって、僕はクラブ経営について興味を持った。そういう視点を学ぶことは、将来監督業をしたとき、経営の観点を理解したうえで、チームマネジメントができるのは、武器になるんじゃないかと考えた。フロントと現場どちらも知ったたうえで、動けるほうが有利だからだ。

‘13年からセリエAのインテルが運営するサッカースクール、インテルアカデミージャパンのスポーツディレクターを務めさせてもらっている。その仕事では、欧州最先端、ワールドワイドな考え方に触れられ、とても勉強になっている。

だから、監督業のオファーをいただいても、まだ「学ぶことがある」と、それを受けることはなかった。

そして今、十勝スカイアースの統括ゼネラルマネージャーの仕事に就き、クラブの経営やチーム編成や強化などに携わっている。他界された前代表の藤川孝幸さんに導かれるような形で始めた仕事だけれど、非常に充実した毎日を送っている。

全権を託されたからこそ、僕に課せられた責任は重いが、だからこそ、自分の意志を形にしやすい環境だ。今現在のクラブ運営、マネジメントが最大の責務だけれど、同時に将来を見据えて、人を育てなければならない。正直大変な部分はあるけれど、僕はこの仕事が楽しいし、好きなんだと感じている。

44歳になった今、いろいろな出会いにも恵まれている。様々な企業の経営者の方とお話できる機会も多く、学ぶことはたくさんある。人生の先輩でもある経験豊富な経営者、同世代、若手と年齢やキャリアも様々な人たちとの出会いで、組織をマネジメントするためのヒントやアイデアを数多く得られ、自分自身の思考を柔軟にしてくれる。そんなふうに世界観が広がっていく人との出会いや繋がりの力を感じるし、マネジメントという仕事の面白さを味わい、自分にその仕事が合っているんだなと思える。

そういう現実のなかで、川淵さんの言葉もまた、僕を導いた運命の言葉だったのかもしれない。

続く

Shoji Jo
1975年北海道室蘭市生まれ。元サッカー日本代表。‘98年フランスW杯メンバー。2006年、現役引退。’17年、現・北海道十勝スカイアースのスーパーバイザー、’19年、北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャーに就任。


Text=寺野典子 Photograph=杉田裕一