安藤忠雄が小澤征爾と会って考えたパイオニアの思考法

パイオニアと呼ばれる人がいる。世の中の常識を疑い、固定観念を覆し、未来を切り拓(ひら)く! 頭ではわかっている、でも簡単ではない。いや、とてもマネできない。パイオニアと僕らは何が違うのか!? 建築家の安藤忠雄さんが指揮者の小澤征爾さんと語り合います。何より仕事のヒントになる、必読!

安藤忠雄特別寄稿 パイオニアとは
道なき道を勇敢に突き進んで新たな世界を切り拓き、社会に新たな価値観を、人々の未来に可能性をもたらす時代の先駆者―─パイオニア。どのような分野にも、こうして偉大な仕事を成し遂げたパイオニアがいる。彼らの挑戦と奮闘が、今日へと世界を導く原動力であった。
 困難に、独り、身を賭(と)して立ち向かう、パイオニアの存在、生き様は、それぞれの仕事の成果と同時に、時代も国境も超えた感動を人々の心にもたらす。今回の企画で対談した日本の誇るパイオニア3名もまた、それぞれの仕事で社会に希望の灯をともしてきた。 
 オザワと片仮名書きされて、その動静が時事ニュースになるのは、世界で活躍する日本人音楽家のパイオニア、小澤征爾さんくらいだろう。世界のオザワのキャリアは1959年の単身渡仏に始まる。渡航自由化の5年前、日本人にとっていまだ海外が遠い未知の世界であったときに「外国の音楽をやる以上、それを育んだ土地の空気と人間を直に知らねば」とスクーターでフランスを縦断した。その才能と突き抜けたパッションで国境を超えて人々の心を揺さぶり、次々と運命の扉を開けていった。2010年からは、病気と闘いながら音楽活動を続けている。満身創痍(まんしんそうい)でも、鬼の形相でオーケストラを振る。
 指揮者は生きている限り指揮者。そこにあるのは、パイオニアであるがゆえの覚悟と、尽きることない音楽と人間世界への愛情である。


20代で海外の音、風、匂いを体験したことが力になった。

 80歳の誕生日を迎える夏に開催されるイベント「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」へ向けて過密スケジュールを戦う世界的指揮者、小澤征爾さん。5年前にがんの手術を受けたとは思えないほどエネルギッシュだ。その活力ある姿に、同じがんから復活した安藤さんも強烈に刺激される。

安藤忠雄(以下・安藤) 小澤さんの著書『ボクの音楽武者修行』、私はくり返し読んでいます。

小澤征爾(以下・小澤) ほう! ありがとうございます。

安藤 読むと、すごく元気になるんですよ。感激し共感した行に線を引いています。好きな本はいつもそうするんですが、次に読む時は新しい1冊を買って、また新しく線を引く。すると、以前とは違う行に線を引いているんです。自分の年齢や、その時の気持ちしだいで興味を覚える箇所が違います。小澤さんの青春期も、それだけ魅力的で奥深い内容でした。最初の渡欧は1950年代ですよね?

小澤 59年です。

安藤 あの時代に武者修行に出るとは、まさにパイオニアです。

小澤 海路でね。神戸港から出国して、フィリピン、シンガポール、インド、スーダン、イタリアをまわりマルセイユからパリへ入りました。

安藤 私も若い時期に別のルートでヨーロッパへ行きました。

小澤 そうでしたか! どんな経路で?

安藤 横浜港から船で旧ソビエト連邦ナホトカに行き、陸路、シベリア鉄道でフィンランドに入り、ヨーロッパを巡りました。その後マルセイユからケープタウンに渡り、ムンバイからフィリピンを経て、帰国しました。

小澤 それはいつ頃ですか?

安藤 小澤さんの6年後。65年です。小澤さんはスクーターを持っていかれたんですね。

小澤 そう。スクーターとギター。富士重工のお世話でラビットジュニア125ccにまたがってヨーロッパをね。

安藤 すごい発想です。

小澤 私のラビットは、名前の通り、まさしくうさぎでね。時速60キロくらいしか出ません。ところが、ヨーロッパには当時すでに、イタリアのランブレッタとかべスパとか、150キロくらい出るスクーターが走っていました。だから、どんどん追い越されていくの。抜きざまに彼らは「お前変な乗り物に乗ってるな」という目で振り返る。楽しかったですよ。

音を伝えるオーケストラは口で説明しすぎたらダメ

安藤 できるだけ若い時期に、自分の目で海外を見ておくことは大切ですね。

小澤 ものすごく大切。日本製の地球儀を眺めると、日本が赤く塗られていますでしょ。世界全体から見ると、日本語圏はあれっぽっちです。そこだけの価値観で一生を過ごすのは、もったいないですよ。ただね、空港で若い日本人の姿を見ると、ちょっとがっかりさせられるの。私はいつも「外国を見たほうがいいよ」と言ってはいるけれど、1週間くらい観光して帰国するというのはねえ。できることなら、じっくりと勉強してほしい。まあ、1週間でも、行かないよりはましかもしれませんけれど。

安藤 今、外国に行きたがらない若い人が増えていますね。

小澤 そうなんです。テレビで見たり、インターネットで調べたりで世界を知った気持ちになってしまう。確かに私たちが若い頃よりもはるかに海の向こうの情報は入ります。でも、それは他の誰かの体験であって、自分自身の経験ではありません。

安藤 その街で鳴る音や風や匂いは、実際に自分が訪れて体験しないとわからないですからね。

小澤 そのとおりです。建築はもちろんですけれど、音楽も生活と結びついています。だから、暮らさないと、本当の音はわからない。その点、今は英語ができれば、世界中ほぼ通用するでしょ。ほんの少し前までは、フランスではフランス語、ドイツではドイツ語を喋れなくてはいけなかったけれど、今はパリやベルリンでも、みんな英語。

安藤 小澤さんは、英語は?

小澤 いや、実は全然だめなの。でも、無理矢理喋ってしまう。安藤さんは?

安藤 私もだめです。私も無理矢理です。デザイナーのジョルジオ・アルマーニと仕事をしたんですけれどね。彼はイタリア語と英語を話します。私は日本語だけ。だから、5時間くらいかけて紙に○とか△とか書いて見せあって、意思の疎通をはかっています。うちの事務所は、スタッフが30人くらいいますが、5年ほど前から、毎週土曜日には先生を呼んで、3時間の英語のレッスンをやっています。

小澤 皆、上達していますか?

安藤 上達しているみたいですね。というのも、私たちが必要なのは建築に関する英語力なので、限られた単語がわかれば仕事の会話は成立するわけです。

小澤 なるほど。そうだ、言葉ができないと不自由ばかりですけれど、一つよかったのは、海外で指揮する時に私は喋らないんです。喋れないから。言葉が堪能だと、説明しすぎてしまうでしょ。説明の多い指揮者はよくないんですよ。音楽ですから。音を出してこその世界ですから。その点、私は喋りすぎる心配がありません。

楽譜を深く読みこむと音楽が聴こえてくる

安藤 英語が不自由と言いながら、小澤さんの目は若い頃から海外へ向いているでしょ?

小澤 それは、私の先生たちが素晴らしかったんですよ。中学までは、豊増昇(とよますのぼる)という先生に就いて、ピアニストになるつもりでした。豊増先生は56年にね、日本人で初めてベルリン・フィルハーモニーと共演しています。それこそパイオニア。

安藤 小澤さん、最初は指揮者志望じゃなかったんですね。

小澤 私は当時、指揮ということすら知らなかった。実は、オーケストラを聴いたこともなかったんです。ピアニストを目指しながら、成城学園中学校でラグビーもやっていて、成蹊学園との試合中に指をけがしましてね。ピアノが弾けなくなった。その時に、豊増先生に指揮を勧められたわけです。

安藤 それで、あの著名な齋藤秀雄先生に就いたわけですね。

小澤 はい。おふくろが書いた手紙を持って、齋藤先生の教室を訪ねたんです。「こういう時は親が付いてくるもんだ!」と怒られてね。でも、うちは貧乏だから親はそんな暇なかった。おふくろがネクタイを編んで銀座の店に納めて生活していたから。九重織りって知っていますか?

安藤 それは……知りませんが、毎日の手仕事で生活をされていたのですね。

小澤 毛糸みたいな太い糸で縫うんです。それを織って暮らしていたんです。

安藤 齋藤先生、厳しかったそうですね。

小澤 厳しかった! でもね、すごく音楽の基礎教育がしっかりしていたんです。齋藤先生が教授を務める桐朋学園短期大学では、ソルフェージュという耳の教育のためにフランスから専門の先生を呼んでいました。私も桐朋学園に入って勉強しました。ソルフェージュをやると、音を聴いてすぐに譜面にできます。だからこそ、齋藤先生の弟子の多くが成功したのでしょうね。

安藤 小澤さんは、その後、ベルリンでへルベルト・フォン・カラヤンに就き、ニューヨークでレナード・バーンスタインに就きますが、基礎ができていたから評価されたのですか。

小澤 そのとおり。基礎教育のおかげだと思っています。ただし、59年にフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで一番になってカラヤン先生に弟子入りしたけれど、私、言葉がわからないでしょ。大変でした。

安藤 カラヤンさんは何語?

小澤 英語で話すんですけれどね、まったくわからない。カラヤン先生は、亡くなるまで私を弟子だと思っていたから、いろいろ電話してくるわけです。でも、理解できないの。
「Excuse me, what?」
 と丁重に聞いているのに、怒りだすんです。
「What is what!」
 って最後まで怖かったですね。
ただし、音楽においては、意外にも細かいことは言いません。あれはシベリウスの「交響曲第五番」をやった時かな。
「お前は全体を見ろ。細かい演奏は演奏者に任せろ」
 オーケストラ全体の方向性をきちっと見ておけと言うだけ。カラヤン先生自身、目を閉じて、全体の行方だけを確かめるような指揮をするんですが、演奏のディテールは正確です。

安藤 ほう。バーンスタインさんはどうでしたか?

小澤 レニー(バーンスタインは「レニー」と呼ばれることを好んだ)はね、感覚的なの。指揮する姿は典型的なアメリカ人。見た目はおおらかです。ところが、演奏内容はディテールにいたるまでピタッと正確。素晴らしい。びっくりしますよ。カラヤン先生も、レニーも、8分音符も16分音符もぴったりです。

安藤 オーケストラひとりひとりの力を最大限引きだすというか、自発的に生まれてくる音を大切にしているんでしょうね。

小澤 そう!

安藤 以前、小澤さんと作曲家の武満徹(たけみつとおる)さんとの対談を読みました。武満さんは、小澤さんが新作を、1曲すべて暗譜していたことに驚かれていました。

小澤 「環(リング)3人の奏者のための」のことだと思います。私が初演を指揮させていただいた。初演というのは、ものすごく責任があります。というのも、作曲家が、自分が書いた曲を初めて聴くわけですから。

安藤 それまで武満さんの頭の中で鳴っていた音楽を、作り手自身が初めて自分の耳で聴くわけですね。

小澤 そう。大変なことなんですよ。音楽というのは、作曲家のものです。でも、五線譜に書いただけでは音にならないから、演奏者や指揮者がいるわけです。だから、指揮者は、作曲家がどんな気持ちで書いたのかを理解するために、じっと、深く、楽譜を読み続けます。

安藤 勉強するわけですね。

小澤 はい。勉強です。じっと楽譜を読み続けていると、ある時、頭の中で音が鳴り始めます。現代の作品であれ、中世の作品であれ、作曲家の頭の中で鳴っていた音楽が聴こえてくる。

元気な姿を見ることで「負けんように生きる!」

安藤 小澤さんが80歳を迎える9月1日をはさんで、長野県松本市で「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」が行われます。

小澤 2014年までは「サイトウ・キネン・フェスティバル」でした。80年代にスタートした当初は齋藤先生の弟子が中心で。でも、30年ほどでメンバーが新しくなりましてね。フェスティバルの名称も変わります。

安藤 私はね、小澤さんが元気に音楽をやっていらっしゃる姿を見るのが、ものすごく励みになります。前回、小澤さんと会ったのは09年の夏、びわ湖ホールで演奏会をされた時でした。

小澤 そうでした。よく覚えています。

安藤 私たちは、あの時、お互いの健康をたたえ合いました。ところが、翌月、私、がんが見つかりましてね。胆嚢(たんのう)、胆管、十二指腸を全摘出したんです。そして、翌年に小澤さんも食道がんをやられた。

小澤 食道をとりました。

安藤 小澤さんも私も健康が取り柄だったはずなのに。でも、小澤さんが復活されて、すごく嬉しかった。

小澤 ありがとうございます。

安藤 私、昨年また膵臓(すいぞう)にがんが見つかりましてね。膵臓も脾臓(ひぞう)も全摘したんです。
「膵臓をとって生きている人、いますか?」
 担当医に訊(き)きました。
「生きている人はいますけれど、元気になった人はいません」
 という回答でした。そんな状況でしたが、小澤さんが復活された姿を見ているうちに、私も元気になってきました。今は仕事の現場に復帰しています。

小澤 安藤さん、お元気そうに見えますよ。

安藤 小澤さんが前を向いて生きておられる姿を見て「負けんように生きたい!」と思いましてね。だから、今年の松本のフェスティバルに向けて頑張られているのは、私だけでなく、日本の希望だと思っています。


Text=神舘和典 Photograph=伊藤徹也、安藤忠雄建築研究所

*本記事の内容は15年5月1日取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい。14年4月以降の記事では原則、税抜き価格を掲載しています。(14年3月以前は原則、税込み価格)

安藤忠雄
安藤忠雄
1941年生まれ。独学で建築を学び、’69年に安藤忠雄建築研究所を設立。世界的建築家として活躍する。現在、進行中のプロジェクトは50を超える。プリツカー賞、文化勲章をはじめ受賞歴多数。桃・柿育英会 東日本大震災遺児育英資金」実行委員長。イェール、コロンビア、ハーバード大学の客員教授歴任。97年より東京大学教授、03年より名誉教授。2017年、国立新美術館で開催された個展には30万人を動員し、翌年パリのポンピドゥーセンターでも開催された。
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