【城彰二】社会人リーグから、Jリーグへの挑戦!

信頼する先輩であり、前任者でもあった藤川孝幸の死をきっかけに、2019年、城彰二は、突然北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャーに就任した。所属はまだ、社会人リーグ。スタジアムはもちろん、決まった練習場さえもない。スポンサーヘの営業、自治体との連係、クラブ運営など、すべてを行わなければいけない。北海道室蘭市で生まれ、中学1年まで過ごした城の目標。それは、北海道初のJリーグクラブを作ること――。


1.故・藤川孝幸との最期の約束

「こんにちは。本日も無事に勝利で試合を終えることができました」

週末、北海道十勝スカイアースの試合が終わると、その日のうちに、僕はスポンサーやお世話になっている人たちへメールを送る。スタジアムに足を運んでくださった方へのお礼だけでなく、試合の概要を伝えることで、チームの成長や状況を報告し、ホームの試合であれは、観客数なども伝え、日ごろの支援に感謝する。ホームゲームの前には、「是非スタジアムへ足を運んでください」と言ったお誘いのメールも欠かさず送っている。

2019年3月、僕は北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャーに就任した。2018年シーズンはスーパーバイザーとして関わらせていただいたが、今は統括GMとして、チームの編成や運営、選手指導といった現場だけでなく、協賛スポンサーや自治体との関係性強化や事業など、クラブの運営の仕事にも就くことになった。

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2.亡くなった藤川社長の夢を継ぐ。GM就任はゼロからのスタートだった

「すべてをいったん表に出そう。書類はすべてこの箱に入れて、あとから整理するしかないね」

北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャ―(以下統括GM)としての初仕事は、事務所の大掃除だった。十勝スカイアースの「Jリーグ加盟」を目標に掲げて、走り続けていた前社長の藤川孝幸さん(元川崎ヴェルディGK)が他界されたあとも、藤川さんの夢は途切れることはなかった。運営主体のリーフラスとも話し合い、クラブの社長は地元の人間に任せ、僕は統括ゼネラル・マネージャ―として、チーム運営だけでなく、クラブ運営にも関わることになった。

僕の統括GM就任発表は2019年3月だが、その仕事は2018年末から始まった。全権委任していた藤川さんが突然病に倒れたこともあり、引き継ぎも十分とは言えない状況で、ある意味ではゼロ、もしくはマイナスからのスタートだった。事務所内の設備も不十分で、散らかった部屋を片付け、整理した書類を管理する棚も購入した。そして、スポンサー企業への挨拶まわりだ。幸い現在の十勝地域では、農畜産業が栄え、インバウンド効果もあり、地元経済は好況の様相を示している。規模が大きくはなくとも、良品を生産することで、全国的に高い評価を得ている会社が少なくない。その利益を地域に還元するうえで、十勝スカイアースの存在が有益だと期待を寄せてくれる。それは藤川さんの功績であり、彼亡きあとも継続した支援を約束してくれた。

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3.アマチュアにも勝利給! 選手たちの意識を変える

「これが契約書だから、目を通したうえで、問題がなければ、サインしてください」

「勝利給って、地域リーグでももらえるんですか?」

「もちろんそうだよ」

「そうなんですか! 俺ら全部勝ちますよ、大丈夫ですか?」

「全部勝ってくれ。問題はないよ」

2019年シーズンを前に北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャ―として、選手ひとりひとりと面談し、契約書を交わした。十勝スカイアースは北海道地域リーグで戦う社会人チーム。いわばアマチュアチームだ。サッカー選手として契約書にサインするという作業自体が初めてという選手も多かった。わずかに高揚した面持ちでサインする選手たちを見ていると、僕自身も少し嬉しくなった。

統括GMとして、クラブの予算立てをする際、僕は「選手ファースト」ということを第一に考えた。彼らがサッカーに集中できる環境を整えたいと思ったからだ。ほとんどの選手がアマチュアなので、クラブから給料は支払われていない。各自が日中仕事をし、19時から練習に参加し、週末のリーグ戦に備える。

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4.FC今治・岡田武史代表からの言葉に心が揺さぶられる

「スポンサー企業の存在も重要だけれど、地域に密着できないと難しいぞ」

岡田武史サッカー元日本代表監督からのアドバイスだ。社会人リーグである、地域リーグはチケット代が無料のため、チケット収入での収益が望めない。そのため、クラブ運営資金はスポンサー頼みというところが大きく、僕らの夢に力を貸してくれる企業への感謝は大きい。

しかし、今もっとも重要なのは、地元の方々の「十勝スカイアース」への認知度を高める活動だ。この仕事を引き受けたとき、FC今治(四国リーグに所属していた2014年、岡田さんが代表に就任し、強化を図り、2017年JFL入り)の岡田さんと話した。今治で苦労されているだけに、その言葉は重く響いた。

たとえば、一時的に多くの資金を投じて、有力な選手を補強して、チームを強化し、J3へ昇格させることは可能だろう。しかし、地域に根付かないクラブには、将来はない。成績が悪くなれば、離れていくスポンサーもいるだろう。けれど、地域に密着し、地元の人たちに愛される存在になることで、成績に関係なく、クラブの存在意味が生まれる。それがクラブのブランド力という価値に繋がっていく。

今季開幕前から、ポスターを作り、お店に貼ってもらえないかと、商店街などへ出向き、お願いをしている。「あれ、城さんですよね、どうして帯広にいるんですか?」そんなふうに驚かれることもまだまだ少なくない。

「僕は今、十勝スカイアースというサッカーチームの統括GMをしているんですよ」

十勝スカイアースの話題をするきっかけにはなるが、本来なら、僕が帯広にいることが当然というようにならなくてはいけない。

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5.城をクラブ経営に導いたきっかけは、あの川淵三郎だった

「現場をやる前に、クラブ経営などを経験し、視野をもっと広げたほうがいい」

1993年。鹿児島実業高校3年時に、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグがスタート。空前のJリーグブームのなか、僕はジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉・市原)でプロデビューを果たした。デビュー戦から、4試合連続ゴール。僕自身もその波(ブーム)に乗った。‘96年アトランタ五輪、’98年W杯フランス大会出場。横浜マリノス(現横浜Fマリノス)に移籍すると3シーズン連続で二桁ゴールをマークし、スペインのレアル・バリャドリードへレンタル移籍したのは2000年。

Jリーグの契約規約が今とは違い、多額の移籍金が生じる時代でもあり、欧州での日本人選手の評価もまだまだ低い時代だった。レギュラーとしてプレーしたものの、怪我もあり、約半年後に帰国を余儀なくされた。しかし、横浜に復帰しても、負傷を繰り返し、ストライカーとして重要なゴールという結果から遠ざかった。‘02年にヴィッセル神戸へレンタル移籍し、環境を変えたものの、評価を得られる活躍はできなかった。

そして、そのシーズン終了時、神戸との契約延長は叶わず、横浜との契約も終了。僕は初めて「戦力外通告」を受けることになる。当時の僕はまだ27歳。引退を考える年齢ではなかった。しかし、J1からのオファーはなく、J2の横浜FCへの移籍が決まった。1998年に設立された横浜FCは、翌‘99年よりJFLに参戦し、2000年からJ2で活動する歴史の浅いクラブ。当然成績も芳しいものではなく、下位争いが定位置といった状況だった。当時はまだJ3降格がなかったけれど、J1昇格を願うサポーターの想いに答えたいと思った。

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6.野球チームも作る! 目指すは地域総合型スポーツクラブ

「僕が死んだあとにも残るものを作る!」

2017年、藤川孝幸さんが、「十勝にJリーグのクラブを」と動き出したとき、「5年以内でJ3入り」というプランを掲げた。僕は‘19年から統括GMとしてその遺志を継いだが、「5年以内」という目標の実現は正直難しいと思っている。資金を投下して、選手を補強すれば、成績は残せるかもしれない。

しかし、Jリーグ参入にはさまざまな条件があり、スタジアムや練習環境などのハード面にも及ぶ。Jリーグの一歩手前であるJFLであっても、運営費は今の予算の倍近くは必要になる。そう考えたときに、帯広の地元企業のサポートだけでは足りないかもしれず、全国的な規模でスポンサーを探さなければならない。クラブとしての屋台骨がしっかりしなければ、選手の健闘に応えられない。

Jリーグ参入に相応しいクラブの土台を作ることが、フロントの責任だ。そう考えたときに、5年後というのは、時期尚早だと考えている。それでも、Jリーグ参入から逃げるつもりはない。続けられるのであれば、最低でもJリーグ入りを果たすまでは、この仕事を続けたいと思っている。
 
この仕事を始めて、一番学んだのは「人とのつながり」の重要さだ。目の前の相手は僕自身を見ている。サッカー選手としての城彰二ではなく、一人の男としての城彰二の人柄を見る。だから、絶対に嘘は言えないし、きれいごとで話を終わらせることもできない。誠心誠意、熱意を伝えなければ、理解してもらえないし、共感も感動も得られない。

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Shoji Jo
1975年北海道室蘭市生まれ。元サッカー日本代表。‘98年フランスW杯メンバー。2006年、現役引退。’17年、現・北海道十勝スカイアースのスーパーバイザー、’19年、北海道十勝スカイアースの統括ゼネラル・マネージャーに就任。


Text=寺野典子 Photograph=杉田裕一