俳優・別所哲也が、20年間も映画祭をやり続けられた理由(前編)

この6月に開催される米国アカデミー賞公認・アジア最大級の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル&アジア」。25分以内のショートフィルムのみを扱う異色の映画祭だが、ここで選ばれたグランプリ作品が米国アカデミー賞短編実写映画部門を獲得するなど、国際的な舞台への登竜門ともなっている。1999年、上映作品33点で始まった映画祭は、今年、応募数10000点以上、上映作品は約250点にまで拡大。世界でも稀にみるこのイベントを立ち上げ、ここまでに育てたのは、俳優の別所哲也だ。

ひと目惚れで、ジョージ・ルーカスにアタック

別所とショートフィルムとの出合いは1997年の秋。当時の彼は、大学卒業後に単身渡ったハリウッドでSF大作『クライシス2050』でメジャーデビューを飾り、日米を頻繁に行き来していた。

「“短編なんて映画じゃない” “しょせん実験映画のようなマニアの世界”と、最初はすごく先入観を持っていましたね。友人にスクリーニングに誘われた時も、しぶしぶ……という感じで。ところが実際に見てみたらとんでもなく面白い。“宝の山だ!”と感じました」

凝縮された物語世界や、先鋭的な技術へのチャレンジ、未知のクリエイターたちの存在……もっともっと見てみたい。興奮冷めやらぬままその翌日に向かったのは、ショートフィルムを多く保管する南カリフォルニア大学のフィルムアーカイブ。そこで運命的に出会ったのが、あのジョージ・ルーカス監督が無名時代に撮った6本のショートフィルムだった。

「施設の方にルーカスフィルムを紹介していただいて。ダメもとでメールで連絡を取ったら、第一回の映画祭で全作品を上映させていただく許可を得ることができました。今考えたら、よくあんな勝手なことやったなと(笑)」

1999年、アメリカ大使館にてジョージ・ルーカスと。

その年が明けて翌年1月には、サンダンス映画祭に足を運んだ。俳優ロバート・レッドフォードが1978年に立ち上げた映画祭は、彼が『明日に向かって撃て!』で演じた「サンダンス・キッド」にその名をちなむ。ユタ州の山奥のスキーリゾートで真冬の時期に行われる、良質な独立系映画の発掘で知られた映画祭だった。

「怒涛のように雪が降っている、ここで? と思うような場所で、世界的な映画人と町のおばちゃんが映画について普通に会話しているんです。その隔たりのなさに、“映画のお祭りって素敵だな”と純粋に心を打たれました。もちろんそこでもショートフィルムをいくつも見て、社会派からおバカコメディまであるバリエーションの豊かさに感動して。どんなカタチでもいいから絶対に映画祭をやる! という気持ちになってしまったんです」

“いばらの道”を経て、アカデミー賞公認の映画祭へ

だが、思いだけでまわってゆくほど甘いものではない。翌年の’99年の初開催から、いばらの道を行く日々が始まった。

「何もわからないままスタートしていますから、すべてが暗中模索。イベントの企画や構成、行政への申請書類の作り方、技術者との話し合い、お弁当の調達、ファミレスでみんなで集まって、協賛を得るための企画書を一晩中作ったり。当初はフィルムでしたから税関を通さなきゃいけなかったし、字幕を焼き付ける作業まで覚えました。当時の常駐スタッフは日米で合わせて6人のみで、なんでもやらざるを得なかった。とにかくいろいろな映画祭を参考に、試行錯誤を繰り返していましたね」

長期的な事業計画などないまま、「今年で、やれることはやった」という1年1年が過ぎてゆき、転機となったのは5年目の2004年。アカデミー賞が公認する映画祭となったこと。つまりはこれ以降、「ショートショートフィルム フェスティバル」で賞を獲得した作品は、アカデミー賞の短編部門にエントリーされることとなった。

「LAでショートフィルムに出合いましたし、やっぱり映画の王国ハリウッドで、なんらかのカタチで開催したい。それで4年目に、エジプシャンシアターで2日間だけ、日本のショートフィルムを上映したんです。それを見にいらしていたアカデミー協会の方から、翌年の’03年に“アカデミー賞の公認映画祭のリストに入れたい”という連絡があって。そういうものがあること自体知らなかったので、最初はキツネにつままれたような、え? っていう感じでしたね。公認までには10年以上かかるのが普通のようですが、当時、短編の映画祭は僕らしかなかったからかもしれません。翌年からは海外メディアのコンタクトも、作品の集まり方もケタが違ってきた。いろんなカタチで広がっていきました」

「アクター」でありたいという思い

映画祭を主宰することは、俳優としての自分自身を見つめなおすことでもあったと、別所は振り返る。

当時の日本はトレンディドラマ全盛の90年代。日本人ハリウッド俳優の“逆輸入”というカタチで人気を獲得し、1クールで2作品の連続ドラマに出演することも多かった彼は、日々のすべてがドラマの中での“疑似体験”で満たされていることに危機感を覚えていた。表現者としての糧は実人生の経験しかない――そう考えた別所は、3ヵ月の休暇を取り渡米する。だがそこで待っていたのは、より大きな“アイデンティティ・クライシス”だったという。

「あなたは何者なのか、それを表現できなければ海外では誰も認めてはくれない。日本人、静岡県生まれ、巳年、血液型A、それが何? あなたそれで自分のことアイデンティファイしたつもり? と言われ続ける一方で、じゃあ、自分は何が好きなのか、何が大切なのか、どんな価値観を持っているのかを聞かれても、ちゃんと答えられない。すごくヘコみましたね。自分が自分のこと何もわかってないし、自分の輪郭だと思っていたものは、輪郭でも何でもなかった」

そんななか、アメリカで師事していた演技のコーチのひと言――「あなたは“アクター”の意味を完全に間違えている」――には、頭をガツンと殴られたような気持になったという。

「“アクター”は、アメリカでは“演技をする人”でなく“行動する人”だと。社会的な活動に精力的なレオナルド・ディカプリオやジョディ・フォスターのような俳優たちがいますが、社会的な見方としても、彼ら自身のなかでも、彼らが“アクティビスト”であることは“アクター”であることとまったく乖離しないんです。社会活動家? 当たり前じゃん、行動する人なんだから、っていう。何も行動を起こしていない自分が、すごく恥ずかしくなりました」

かくして「アクターでありたい」という思いに突き動かされた別所は、ショートショートフィルムフェスティバルを立ち上げる。

「社会活動家になれているかどうかはわからないけれど、行動する人でありたいという思いは今も変わらないし、行動しないなら生きている意味がない」

そんな別所のもとで、映画祭は驚くべき先進的な変化を遂げてゆく。

【後編】はコチラ


SSFF & ASIA とは?

ショートショート フィルムフェスティバル & アジア(SSFA & ASIA)は、米国アカデミー賞公認の国際短編映画祭。ショートフィルムとは長いもので30分前後、短いものはわずか1分ほどの映画作品のこと。SSFF & ASIA のオフィシャルコンペティションでは、25分以内の作品を公募の条件とする。短尺とはいえ、ドラマ、アニメーション、ドキュメンタリーなど多彩な持ち味の作品があり、短い尺だからこそできる映像表現や、ウィットに富んだ物語が魅力。また、ショートフィルムは若手映像作家が力を養うためのフォーマットであり、映画祭はまさにその登竜門といえる。今年は20周年を迎え、6月4日より24日まで「Cinema Smart」をテーマに開催される。

20周年を迎える今年の「SSFA & ASIA」の情報はこちらから


Tetsuya Bessyo
1965年生まれ。'90年、日米合作映画『クライシス2050』でハリウッドデビュー。その後、映画・ドラマ・舞台・ラジオ等で幅広く活躍中。「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」などの舞台に出演。'99年より、日本発の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル」を主宰し、文化庁長官表彰受賞。観光庁「VISIT JAPAN 大使」、映画倫理委員会委員、外務省「ジャパン・ハウス」有識者諮問会議メンバーに就任。日本を発信する日本人の一人に選出される。

Text=渥美志保 Photpgraph=尾崎 誠