【小橋賢児の半生⑤】  世界中を旅して回るが、帰国後はひきこもりに

先日開催された「ULTRA JAPAN」(主催:Avex)。3日間で12万人の来場者を熱狂させたダンスミュージックフェスを、5年前からクリエイティブディレクター(現在はクリエイティブアドバイザー)として関わってきたのが小橋賢児だ。その名に聞き覚えのある人はかなりいるだろうが、彼のどの顔を知っているかは人によりバラバラではないか。 俳優、映画監督、イベントプロデュース……。時期によって注目される側面が次々と変わっていく、まさにマルチな活動ぶりだ。いまや特定の領域に閉じこもってばかりいては、先が拓けない時代。 ジャンルを軽やかに跳び越えていく者だけが、真に革新的なことを為し得る。それを見事に体現する小橋賢児が自身の半生を語る。  


旅をするうちにマインドが大きく変わった

ネパールで「今を生きている」男と出会ったことで、自分を見つめ直すようになった僕が米国へ留学しようと決めたのもまた、ネパールの彼の影響だった。

彼とは片言の英語で話をした。言葉がもっと通じたら、お互いにもっと深く知ることができたんじゃないか。語学の勉強をしっかりしようと決意した。

やるならとことんやるつもりだった。語学留学先を選ぶにあたっては、L.A.なんかだと遊んじゃいそうだから避けた。季節は冬に向かう時期だったから、あえてボストンなんかがよさそうだ。寒くて遊ぶところも少なさそうだし、大学や研究機関がたくさんあってマジメな人が街にあふれていそうだ。

本気で取り組むつもり満々だった僕は、渡米1ヵ月前から携帯の電源をオフにして、これまでの付き合いをすべて絶った。自分の時間をすべて英語の勉強に費やしたのだ。猛烈な受験生みたいに、1日18時間くらい勉強した。

準備万端でボストンの語学学校へ赴いた。とはいえ、1ヵ月という付け焼き刃だ。覚え込んだ内容はペラペラしゃべれたけれど、それ以外の会話にはやっぱりついていけない。振り分けられたのは、いちばんレベルが下のクラス。でも、めげたりはしない。コツコツと勉強を進めた。同時に、ふたつの目標を決めた。冬のあいだはとにかく勉強して、春になったら友だちを見つけてクルマで米国を横断したい。それから、英語で誰かとケンカできるほどになろうとも。

春になって、実際に米国でできた友だちと横断旅行をすることができた。長時間一緒にいるから、心配しなくたって友だちとケンカのひとつやふたつはする。ふたつの目標は一気に達成できた(笑)。

旅はL.A.から始まって、明確な行き先を決めずに東へ向かい、マイアミへとと進んだ。その路上で、びっくりしたことにDJをやっている日本の友だちとばったり出会った。DJのカンファレンスに参加するために来ていたのだという。話していたら、いまフロリダではULTRAっていうフェスをやっていておもしろいよと教えてくれた。

こっちは時間がいくらでもあるから、そう聞いたらもちろん行ってみたくなる。そのフェスの現場は、青空の下に大きなスクリーンがあって、最先端の音楽とテクノロジーにたっぷり触れられて、世界中の人たちが集い、ハイタッチしてともに時間を楽しんでいる。ああこんな世界が本当にあるんだ、とうれしくなった。

昨日リストラにあった人もいるだろうし、つい最近恋人と別れた人だっているはずなのに、ここに来ればみんな笑顔に包まれて、何か新しい感覚を得ることができる。国境や人種を超えて誰もがつながれる。なんてすばらしいことか。

こうしたイベント、日本では残念ながら見かけないけれど、世界各地にはいろいろあるんじゃないか。そう考えて、フェスを探しながら世界中を見て回る旅も始めた。ヨーロッパ、アジア、中東とあちこちを巡った。

旅を重ねるうちに、フェスだけじゃなくてその土地の文化や風土も深く吸収できるようになっていった。大いに刺激を受けたし、水を得た魚のように自分がどんどん「開いて」いくのがわかった。

開いた心を持っていれば、自分にはいろんなことができそうだ。自分は可能性に満ちている。そんな気分で日本に戻ると、当然ながらそこは何も変わっていない。それはそうだ、僕が海外で非日常に足を突っ込んでいるあいだも、日本では日常が続いているのだから。

自分自身だって、マインドは大きく変わったとはいえ、実際には何を為したわけでもない。日本に帰ってきて堂々と語れる実績なんてとくに積んではいないのだ。

新しく仕事をしようと、これまでの見聞を生かしてイベントを企画しようとしても、話が浮かんでは消えてしまう。これまでのキャリアは俳優しかないから、「おもしろそうだけど、元俳優の人でしょ、ふつうの仕事できるのかな」などと見られることばかり。気持ちとしては何でもできると思っているのに、何もやっていない状態がしばらく続いた。

せっかく「開いて」いた気分も、だんだんしぼんできた。気づけば貯金も底を尽きかける。そうなると精神も不安定になって、始終イライラしっぱなし。身近な人ともぶつかってばかり。ポジティブな考えは消えて、過去を悔やみ未来を悲観する日々になった。

自分の住まいは引き払い、実家にひきこもったら、身体に力が入らず床から起きる気力もない。さすがに病院へ行ったほうがいいと診てもらうと、ストレスから肝臓がやられていると言われた。環境を変えて運動するしかないとのことで、知り合いのトレーナーを頼って茅ヶ崎で身体を動かすことにした。

砂浜や山中を走り、ライフセービングのトレーニングも始めた。そこでふと気づいた。自分があと3ヵ月で30歳になることに。あれほど「男は30歳から」と思っていたのに、こんな最低な状態で迎えてしまっていいのか。いま、落ちるところまで落ちてしまっている。あとは上がればいい。

何かバカげた目標を据えて、そこに向かって全力で走ってやろうと決めた。そこで、自分の誕生日を盛大なパーティーイベントにしてしまうことを思いついた。幸い知り合いがお台場のホテルのプールを管理していたから、えいやと誕生日にそこを借りる予約をしてしまった。

自己資金なんて、ない。参加費をもらってちゃんとペイするようなイベントをつくり上げるしかなかった。そのためにかつての仲間に声をかけ、映像や音楽、フライヤーをつくり、DJを手配したりと準備を進めた。

こうなれば、自分も変わらなければいけない。バースデーまでに最高の身体になろうと決めて、トレーニングに精を出した。朝起きたらライフセービングか山中ランを日替わりで。終わったらジムに入り筋トレをして、その後にスイミング。このフルコースを毎日続け、当日には北島康介みたいな身体を手に入れた(笑)。

パーティーは盛り上がり、成功を収めた。どうやったらいいイベントをつくれるかのコツをつかみ、その後は仲間とイベントをつくることが増えていったし、けっこう話題になった。僕らがつくっていたのはインフルエンサーがいてカメラマンやスタイリストといった業界のおもしろい人が集まってくるようなパーティーで、いま思えば企業も絡みたくなるイベントだったのかもしれないなぁと。

場づくりが楽しくてやっていたことだけど、いつしかプロの制作会社として十分にまわせていけるだけの仕事が舞いこんでいた。結果、このころの経験はULTRA JAPANを立ち上げて制作・運営していくことへ直結している。

次回へ続く

Text=山内宏泰 Photograph=太田隆生


俳優から転身! なぜULTRA JAPANを手掛けたのか?


芸能界デビューのきっかけは8歳の時に送った1枚のハガキ


1990年代の芸能界は独特の華やかな魔力があった