「そこから這い上がれ」と小学生の自分に呼びかけたイチロー ~ビジネスパーソンの言語学㊲

最近、説明や謝罪時の、違和感のある言葉遣いが話題になりがちだ。当コラムでは、実際の発言を例にとり、公私の場で失敗しない言葉の用い方を考える。ビジネスパーソンのための実践言語学講座、いざ開講!


「『お前、契約金1億円ももらえないよ』って(笑)」ーーー引退表明の記者会見で、小学生の自分に声をかけるとしたらと問われたシアトル・マリナーズ イチロー選手

イチローは、最後までイチローだった。深夜のスタートとなった引退の記者会見は85分間におよび、次々と投げかけられる質問を撃ち返す。決してステレオタイプな表現をつかわず、ひとつひとつ丁寧に、自分の言葉で答える。45歳のベテランプレイヤーの引退会見でありながら、どこか緊張感が漂っていたように見えたのは、彼のどこまでも妥協しないプロとしての対応が徹底していたからだろう。

彼の長い現役生活には数々の名シーンがあった。これまでも多くの人が彼の言葉に刺激を受け、励まされてきただろう。常に前を向き、自分を磨きつづける姿勢はビジネスパーソンにとっても素晴らしいお手本となってきた。

新たな“イチロー語録”がたくさんうまれたこの記者会見で、彼が即答した質問があった。それは、「契約金1億円のドラフト1位でプロに入り、一流の選手になる」と作文に書いた小学生の自分に声をかけるとしたらというもの。狙い通りのボールがきたと言わんばかりに、彼は嬉しそうに語った。

「『お前、契約金1億円ももらえないよ』って(笑)。夢は大きくといいますけど、なかなか難しいですよ。『ドラ1の1億』って掲げてましたけど、全然遠く及ばなかったですから。ある意味では、挫折ですよね、それは」

顔は笑ってはいたが、あえて“挫折”という言葉をつかったところに、イチローの強いプライドを感じた。1992年ドラフト4位指名でオリックス・ブルーウェーブに入団したイチローの契約金は4000万円(年俸430万円)。愛工大名電高時代から圧倒的なバッティングセンスを見せていたイチローの評価が低かったのは、体の線が細かったからだと言われている。多くのスカウトがプロ向きではないと評価したのだ。

それを彼は結果でねじ伏せた。努力を重ね、日米でヒットを量産。「野球の歴史を変えた」と言われるほどのスーパースターとなった。マリナーズ時代には最高1800万ドルの5年契約を結ぶなど、その生涯年俸は200億円を超えると言われている。

この会見でも彼は、「自分は天才ではない」と断言した。自分のプロ生活は挫折からスタートした。決してエリートではない。その思いがあったからこそ、彼はひたすら努力しつづけることができたのだろう。

他人の評価は関係ない。

一度や二度の挫折は乗り越えられる。

自分を信じればいい。

小学生の自分に呼びかける彼の笑顔からは、そんなメッセージが伝わってきた。

原点の自分にどんなふうに語りかけることができるか。誰もがイチローのようになれるわけではない。それでもいつかはかつての自分に胸を張りたい。そう考えれば、いまという時間をどう過ごすべきかも見えてくるような気がする。


Text=星野三千雄 Photograph=Getty Images