【阿部勇樹】闘莉王のキャプテンシーとの違い

阿部勇樹は輝かしい経歴の持ち主だが、自らは「僕は特別なものを持った選手じゃないから」と語る。だからこそ、「指揮官やチームメイトをはじめとした人々との出会いが貴重だった」と。誰と出会ったかということ以上に、その出会いにより、何を学び、どのような糧を得られたのか? それがキャリアを左右する。【阿部勇樹 〜一期一会、僕を形作った人たち~⑩】。


闘莉王と比べると真逆だった  

日系3世のブラジル人選手として、渋谷幕張高校を卒業し、2001年にプロ入りを果たしたとき、田中マルクス闘莉王の登録名はトゥーリオだった。2003シーズンは、外国人枠の関係で、J2の水戸ホーリーホックへレンタル移籍した闘莉王は、同年秋に日本への帰化を果たし、「田中マルクス闘莉王」になった。

2004年春、アテネ五輪出場権をかけたアジア最終予選が行われた。日本、バーレーン、UAE、レバノンと2巡の総当たり戦を戦い1位のみがアテネの本大会に出場できる。

3月1日からのUAEでの3試合を戦うメンバーに僕の名前はない。1月の五輪代表候補のメンバー入りはしたが、前年12月に右足第5中足骨を骨折し、全治2~3ヵ月と診断されていた。

UAEでの3試合は、2勝1分と勝ち越していた。選手が次々と体調不良になるなかでの苦闘だったことは、メディアなどで知った。そして、3月14日から始まる日本ラウンドに僕は追加招集された。すでにジェフでは練習試合にも出場していたので不安はなかった。

対バーレーン戦。負傷した闘莉王に代わり、途中出場したが、0-1で敗れた。続く3月16日対レバノン戦。キャプテンとして先発出場した。ここで負ければ、アテネへの道のりは厳しくなる大一番だったが、過剰な緊張感はなかった。

「やれることを精いっぱいやるだけ」

いつもと変わらない平常心でピッチに立てた。

そして、前半14分FKのチャンスを迎えた。バーレーン戦では僕の蹴ったFKのボールが味方に当たり、ゴールにはならなかった。手ごたえがあっただけに、今度は決めたいと思った。「壁を超えたら、GKも触れないはず」というボールを蹴った。そして、壁を越えたボールがゴールネットを揺らした。ほしかった先制点を自分の右足で得ることができた。

国立競技場を埋めたサポーターの歓喜の声を聞き、負傷しているにもかかわらずチームに帯同していた闘莉王の笑顔を見て、自分が果たすべき使命を再確認した。

体調不良をはじめ試合に出られなかった選手たち。長く戦ってきた仲間のためにもアテネへの道を絶ってはいけない。そんな気持ちがこみ上げてきた。

バーレーン戦を2-0で勝利し、3月16日の対UAE戦にも3-0で完勝。アテネへの切符を手にした。

8月18日、アテネ・ヴォロス。ガーナとのアテネ五輪第3戦目は1-0と日本の勝利で終わった。しかし、第1戦、第2戦と連敗したことで、すでにこの試合を前に日本のグループリーグ敗退が決まっていた。

パラグアイとの初戦は3-4という結果だった。そして第2戦のイタリア戦は2-3。スコアだけを見れば1点が足りないだけだったが、力の差は歴然としていた。銀メダルのパラグアイ、銅メダルのイタリアということを考えれば、非常にレベルの高い相手と同じグループになってしまったんだなと思えるけれど、それでも同じ年齢の選手たち相手にコテンパンにやられたという印象だけが強く残った。

世界のレベルというのを僕はアテネ五輪で初めて経験した。自分がどれほど足りないかを思い知らされた。ワールドユース(現U-20W杯)で体験できればよかったけれど、僕は出場できなかったから知らなかった。もちろん、話には聞くし、普段から「もっともっと」という気持ちは抱いていたけれど、実際に体感できたことは大きい。

出直すじゃないけれど、叩きなおされるというか、「このままじゃダメだ」という想いが募った。

チームメイトとそういう話をしたわけじゃないけれど、誰もがきっと同じように感じたんだと思う。

それは、それぞれの選手が所属クラブで奮闘している姿からも伝わってきた。

次は、ワールドカップ。目指すのはそこだけだ。

闘莉王のプレーからは、いつも「これに賭けている」という熱が伝わってきた。そのために必要なことを周りにも求める。ときには激しい口調になることもあるけれど、言葉で発し、行動、プレーでそれを示した。それがプロ選手としての彼の生き方だと思った。誰かを想い、チームを想い、勝利のために何かを発信する選手は、チームに欠かせない。

ジェフでキャプテンを務め、僕自身もその重要性を知り、周りを鼓舞する声や熱さを表現できるようにはなったけれど、闘莉王と比べると真逆だった。「あそこまではっきり言えるなんてすごいな」と感じることもあった。ただ、僕は「言わなくても、やるべきことをやる」タイプだったから、基本的には同じだと思っていた。

2004年シリーズ優勝した浦和レッズは、2006年にリーグ制覇を果たす。

そして僕は、2005年、2006年とナビスコカップ二連覇を達成した。  

続く

Yuki Abe
1981年千葉県生まれ。浦和レッズ所属。ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出される。'98年、ジェフユナイテッド市原にて、16歳と333日という当時のJ1の最年少記録を打ちたて、Jリーグデビューを飾る。2007年、浦和レッズに移籍。2010年W杯終了後、イングランドのレスター・シティに移籍。'12年浦和に復帰。国際Aマッチ53試合、3得点。 


Text=寺野典子 Photograph=杉田祐一  

>>>【阿部勇樹】一期一会、僕を形作った人たち

①ブレない精神を最初に教わった師とは?

⑧松井大輔、鈴木啓太らと石川直宏を労う会で感じたこと

  ⓽国体、五輪、浦和、日本代表でともに闘った闘莉王の引退に想うこと