牧野洋 日経の編集委員から主夫へ~元NHK立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉙<後編>

「0歳児が、夜泣くわけです。そうすると泣き止ませる術は一つ、母乳を与えるしかない。しかし妻が出張でいないときもあるんです。それは男の私にはできない話ですよね。そうすると朝まで抱いてあやすんですが、最後に泣き疲れてくれるまではずっと抱いていなきゃいけない」——ピーター・フォンダ似の敏腕ジャーナリストが赤ちゃんをあやして困っている姿というのは、想像すると失礼ながら笑ってしまう。日経で着々と、というより思う存分にキャリアを積み上げてきた牧野洋。彼はなぜ夜通し赤ちゃんをあやす生活を始めることになったのか。


日本のジャーナリズムは死んでいる

1999年、ニューヨークでの4年間のウォール街取材を経て牧野は帰国する。希望通りに日経ビジネス誌の担当となり、編集委員となる。

この編集委員とは新聞社特有の制度で、普通の記者ではない。俗に大記者と呼ぶ。普通の記者の様にデスクの指揮下に入って取材をするのではなく、それまでに蓄積された専門性を生かして自由に取材することが許される。因みに、NHKを含めてテレビにはこの大記者制度はない。だから私の場合は、記者が終わるとデスクになる。そしてデスクになると、記者の取材の面倒を見るのが仕事となり、自分で取材をすることはほぼなくなる。豊富な取材経験を備えた編集委員の存在は新聞の取材力を担保していると言って良いだろう。

それはともかく、牧野は先ず前編で触れた様にウォーレン・バフェットについて本を書く。これが「最強の投資家 バフェット」として好評を博したことも前編で触れた。日経ビジネス誌で暫く自由に取材をした後、証券部に戻ることになる。

今度は証券部の編集委員だ。牧野は、自分の取材を始める。それは、「もの言う株主」だった。その1人は、村上ファンド代表の村上世彰だ。この元経産官僚の投資家の言動を、チューリッヒやニューヨークのウォール街で取材してきた牧野は極めて合理的だと考えた。

牧野は言う。

「経済ジャーナリストとしての私のポリシーは明確です。自由経済。オープンなマーケット。官僚がぎちぎちにした市場では駄目」

一方で、日本は牧野から見れば、そうではない。

「歴史を見ると、外からの投資を迎え入れたところ、移民に窓を開いたところが発展している。では日本はどうか? 海外からの直接投資が最低でした。その大きな理由は海外からの買収が少ない。このままで良い筈がない」

そういう思いが村上にも通じた。既に時代の寵児となっていた村上だが、牧野の取材には積極的に応じていた。村上は、欧米を知る経済ジャーナリストの牧野に他の記者にはないものを感じていたのかもしれない。

牧野は、村上ら投資家の動きを追う中で、「ハゲタカファンドが日本を救う」という特集記事を書いている。これは、かなり刺激的なタイトルだ。

こうした中、村上は東京地検特捜部に逮捕される。2006年6月、あのインサイダー事件だ。

実は逮捕当日の朝、牧野は村上から電話をもらっている。

「きょう、生まれて初めて公の場で嘘をつきます」

牧野は村上にそう言われたという。それが、村上が罪を認めたとされる記者会見だ。自分が罪を認めなければ部下の会社幹部らも逮捕されてしまうと検察から言われたという。そして村上は牧野に言う。

「ちゃんと本当のところはわかってくださいね」

この時のやり取りは後述する牧野の著書「官報複合体」(講談社)にその詳細が書かれている。この会見の後に村上は出頭。そのまま逮捕された。既に新聞、テレビでは村上叩きが始まっていた。それは「関係者」を情報源としているものの、全て検察のリークだ。牧野には、それが検察の世論操作であることがわかる。

村上の逮捕後、牧野は村上について記事を書いていない。正確には、書く機会を与えられなかったということだ。村上については勿論、「ものを言う株主」の存在を最もよく知る自分が記事を書けない……牧野の中で、既に芽生えていた日経、否、日本のメディアに対する違和感が大きくなっていく。

「おかしいでしょ。検察のリークをそのまま流す。そういう日本のジャーナリズムの異常さを見せつけられた感じでした」

村上の話が終わった時、牧野が突然、私に問うた。

「民主主義を考える時、選ばれる政治家のための政治を行うことが民主主義なんですかね? それとも、選ぶ有権者のための政治を行うことが民主主義なんですか? どっちですかね?」

それは当然、「有権者のための政治」だ。

「ですよね? 企業にあてはめたら、それは経営者のための経営なのか? それとも株主のための経営なのか? となるわけです。日本は圧倒的に経営者のための経営を是とするわけです。それが健全な経済であるわけがないんです」

本人は意識していないかもしれないが、10年以上前の話をする牧野の言葉には怒りがこもっている感じだった。

「それがコーポレートガバナンスですよ」

と牧野は言った。つまり、日本のコーポレートガバナンスは見せかだということだ。

牧野の日経への違和感は徐々に不信感となっていく。当時、牧野が取材していた世界の企業の流れがある。「三角合併」だ。三角合併とは、国境をまたいだ形での株式交換を使ったM&A(企業の合併と買収)の手法だ。外国企業が日本企業を買収する際には日本に子会社を設立する必要があり、外国企業、日本子会社、そして買収する日本企業という「三角形」で買収が行われることからこの名で呼ばれる。

「本来の意味は株式交換による企業買収です。それは、世界で国境を越えた形での企業買収では、当然に行われていたことです。現金での買収なんて言っているのは日本くらいだった。ところが、それを、政府、経団連は、『三角合併』と呼んで、極めて異例なことというイメージを流した」

なぜ嫌がったのか?

「時価総額の大きい企業が株式交換で企業が買えるとなると、時価総額の大きな外国の企業が有利になるということでしょう。それを政府も経団連も嫌がっていた」

今でこそ時価総額はニュース用語の一つとなっているが、当時は、そういう意識も希薄だった。その上、日本の企業は日の丸にこだわっている。それでどうやって世界で生き残ることができるのか? 牧野は取材しつつ、疑問に思う日々を過ごす。

そうした記事を書いていく中で、ある人物の逆鱗に触れる。経団連会長(当時)の御手洗冨士夫だ。日経の編集幹部らが経団連に呼ばれて、経団連の方針について説明を受けたという。

「何度も呼ばれていたようです。三角合併を支持するような記事は書かないで欲しいということでした。そして日経のスタンスも決まっていくわけです」

日経は三角合併について「慎重に」と書き始める。

その動きと連動していると見た方が自然だろうが、牧野は証券部から産業部に異動を命じられる。産業部とは、まさに日本の産業界、つまり経団連傘下の企業を取材する部署だ。

編集局長から辞令を受ける際、「経団連も知っておいた方が良い」と言われている。なぜか? ここで、牧野が「できれば書かないでくれ」といったエピソードを敢えて書く。この時、牧野は「将来、君をコラムニストにと考えている」と編集局長に言われている。コラムニストは論説委員より上の、新聞社の顔だ。当時の日経でも、数人しかいない。まさに、日経を代表する記者ということだ。そうなるためには、経団連を知っておいた方が良い……という判断だったと見て良い。

これもまた牧野は否定するが、私には、これは日経のある種の親心だったのかと思う。その際、編集局長から、日本の経営者100人に取材して記事にするというプロジェクトを任される。

しかし牧野にはその気はない。

「なぜ経団連に合わせた記事を書かないといけないのか? 日本は自由経済ではないのか?」

当然、産業部の水は牧野には合わない。合うわけがない。部の雰囲気が、「外資の導入はシャットアウトしろという感じ」(牧野)だった。そんな記事、どう魂を売っても牧野には書けない。いつからか、部内で、「市場原理主義者」とのレッテルまではられている。

しかし牧野は魂を売る気は全くない。このままでは日本企業はいずれ世界から取り残される。外資の脅威論ばかり振りかざしていて日本の企業は世界経済の荒波に立ち向かっていけるのだろうか? その疑問をコラムに書いた。署名記事だ。ゲラもチェックした。ところが、突然、それが下ろされる。掲載見送りだ。夜中になって、掲載されないことが決まったという。前代未聞だ。

担当の編集局幹部は「いずれ復活させるから」と牧野に申し訳なさそうに言った。理解ある上司だったので我慢した。しかし、ボツにしたのがその幹部の判断だと後に知る。

「もう日経では、自分が書きたい記事を書けない」

そう牧野は思った。そして、帰宅して妻の恵美に言った。

「もう日経を辞めたい」

すると恵美は言った。

「いいよ、私が稼ぐから」

そして、「本書きたいんでしょ? 本を書けば良いじゃない」と言った。

前編で書いた通り、牧野はコロンビア大学ジャーナリズムスクール(Jスクール)留学中に、日米のジャーナリズムの違いを知る。その違いは記者、特派員、編集委員を通じて、埋められないほど大きくなり、それが牧野を苦しめている。なぜ苦しむのか? 「日本のジャーナリズムは死んでいる」と、牧野の喉元まで出かかっている。

それを同じくコロンビア大学のJスクールで学んだ恵美は知っている。牧野が世に問いたいことも知っている。では、日経にいて、日本の新聞を批判する本は書けるか? 答えは自明だ。

恵美の言葉が牧野の背中を押す。2007年5月、牧野は日経を辞める。理由は、「妻のキャリアアップのため」とした。会社への不満は当然あったが、それを理由にして辞めたくはなかった。

その時のことを恵美に尋ねた。恵美は淡々と話した。

「私が稼ぐから……とその時に言ったかどうかは覚えていませんが、そういう意識ではいましたから別に驚くこともなく、『じゃあそうしましょう』という感じでした」

勿論、恵美にはそれなりの計算はあった。恵美は既にプロの会議通訳として仕事をしていた。子育ての合間に仕事を受ける感じだったが、仮に牧野が育児、家事をするのであれば、「収入を倍にするくらいは可能だった」と話した。

どういうことか。実は、牧野の日経退職は、再就職を伴うものではなかった。恐らく日経の編集委員なら他の新聞社でも編集委員になる道はあっただろう。しかし牧野の、否、牧野と恵美の選択は違った。

それは、恵美が今後の一家の稼ぎ頭になるということだった。それには恵美がキャリアアップする必要がある。それは恵美も同感だったという。恵美は言った。

「会議通訳は恐らくAIがとってかわる仕事になる。そうなると出来てもあと10年かと思った。だからキャリアアップはしたいと思っていた」

牧野は、「それは妻への投資でした」と振り返ったが、恵美も同じだったのだ。恵美は更に、こうも言った。

「子供への投資でもありました。子供に英語での教育を受けさせることも意味があると考えたんです」

カリフォルニアで家族との信頼関係を築く  

そして牧野一家は渡米する。東京に持っていた家は売却してローンを精算した。そして牧野の退職金を渡米後の費用に充てる。

行先はカリフォルニアだ。恵美は、カリフォルニアにあるクレアモント大学院大学(CGU)のMBAに進む。ドラッカー・スクールだ。あのピーター・ドラッカーが設立したコースだ。実は、牧野はピーター・ドラッカーの「私の履歴書」の執筆を編集委員として手伝っている。その時に、ドラッカーを訪ねてクレアモント大学院大学に行っている。

「その時の印象で、移住するならここが良いというイメージがありました」

既にピーター・ドラッカーは他界していた。しかしドラッカー夫人は家に呼ぶなどしてもてなしてくれた。

  ドラッカー夫人宅でくつろぐ牧野一家。ドラッカー夫人とともに。  

「家族で家にしょっちゅう御呼ばれしていました。本当に感謝しています」

しかしアメリカの大学院での研究は生半可ではない。出張しての学会発表などもある。既に牧野家には、子供が3人。長女は6歳、長男は4歳、そして次女が0歳だ。

当然、牧野のカリフォルニアでの生活は、食事、洗濯、掃除、育児に追われるものとなる。

「もう朝は戦争状態でした。妻は研究で忙しいし、出張でいないときもある。自分の無力感を思い知らされた日々です」

今となっては、なのか、しかし牧野は、実に楽しそうに話す。その笑顔が素敵でもある。ただ、本当に大変だったのだろう。牧野が当時書き綴っていたブログがある。2009年7月7日に「毎朝が嵐のよう」と題して次の様に書いている。

「けさの状況を振り返ってみます。妻が7時前に家を出ていなくなり、同時に3人の子供が目覚めます。まずは3人分の朝食をつくらなければならない……」

朝食に加えて昼食も同時に作る。次女に離乳食を中心とした別の食も作る。そして次女のオムツ替え、長女、長男の学校の支度……と、まさに「重労働」だと書いている。

私にも次の様に話した。

「0歳児が、夜泣くわけです。そうすると泣き止ませる術は一つ、母乳を与えるしかない。しかし妻が出張でいないときもあるんです。それは男の私にはできない話ですよね。そうすると朝まで抱いてあやすんですが、最後に泣き疲れてくれるまではずっと抱いていなきゃいけない」

カリフォルニアで始まった牧野の主夫生活。「毎朝の嵐」の後は、車で子供3人を小学校、保育園に送る。そしてやっと一人になれるのが朝の8時、9時だ。その時にはへとへとになっている。それでも子供を送った後にスターバックスに車を停め、そこでコーヒーを買って過ごすひと時が唯一の自分の時間となる。

「その時くらいですからね。自分の時間って。そのひと時は大切に使いました」

そのひと時に、牧野はパソコンを開き、雑誌のコラムを書いた。前編で触れたコロンビア大学時代の体験から始まる日米のジャーナリズムの違いを、講談社の現代ビジネスに連載で書いている。それは後にまとめられ450ページを超える大著、「官報複合体」(講談社)となっている。そのための取材で、0歳児を抱えてカリフォルニアからニューヨークに行ったこともあったという。

  0歳児を抱えてニューヨークに取材へ。 

これまでいろいろな人のLIFE SHIFTを取材してきたが、これほどの変化を伴ったLIFE SHIFTを私は知らない。社会の矛盾に立ち向かったジャーナリストが、一転、家庭に入り主夫となる。それは実際のところ、どういうものだったのか?

「良かったですよ。本当に良かった。普通のレベルでは考えられないくらい子供たちとコミットできた。子供たちと同じ体験をするんです。子供にとって一番親と接したいときに一緒にいることができた。妻ともそうです。妻も頑張ってくれた。そしてこのカリフォルニアで家族との信頼関係が築けた。それは本当に大きなポイントだった」

無理に言っているわけではないことは、牧野の笑顔でわかる。

カリフォルニアに来て5年目、MBAからPhDに進んだ恵美はPhDも修了。そして九州大学から教職の話が来る。そして家族で帰国。福岡での生活を始め、それが前編の冒頭で触れた著書「福岡はすごい」となる。

そして恵美が広島大学で教職を得たのをきっかけに、家族で広島へ。それで私が2020年早々に広島へ行ったというわけだ。

「今後はどうするんですか?」と問うと、少し考えて、「暫くは広島で過ごしますよ。でも、やっぱりまたカリフォルニアに行きたいですね」

カリフォルニアで育った長女は今や高校生。そして長男が中学生、0歳児だった次女も小学校高学年になる。

「次女はもう英語は忘れてしまっているんで、もう一度、アメリカにみんなで住みたいと思っています」

牧野は、「家族一緒に」と言って笑った。

カリフォルニアでの牧野の「嵐のような」日々について、恵美は次の様に話した。

「彼(牧野)にとって、カリフォルニアでの子育ては初めてだったし大変だったと思うんですが、彼がそういう体験をしたかったということはあります」

そして加えた。

「育児、料理と、男女に限らず人間としてのライフステージとして重要な体験だと思うんです。それを夫婦一緒に経験できたということかと思います」

牧野が恵美と同じ考えであることは間違いない。

牧野は次にどのようなLIFE SHIFTを見せるのか? そのLIFE SHIFTは、当然、家族と一緒に迎え、そして一緒に乗り切るものになるのだろう。

前編はこちら

立岩陽一郎
立岩陽一郎
調査報道を専門とする認定NPO「インファクト」編集長。一橋大学卒業。NHKで初めて戦場特派員としてイラク、クウェートを取材。社会部記者、1年間の米国留学の後、国際報道局デスクを経験するなど華々しいキャリアを築くも「パナマ文書」の取材を最後に49歳にしてNHKを辞職しその翌日渡米。現在は公益法人「政治資金センター」理事や毎日放送「ちちんぷいぷい」のレギュラー・コメンテータ、ニュースメディアへこれまで培ってきた報道の世界の鋭い目線で記事を提供するなど活動の幅は多岐に渡る。著書に「ファクトチェック最前線」「トランプ報道のフェイクとファクト」「NPOメディアが切り開くジャーナリズム」「トランプ王国の素顔」、共著に「ファクトチェックとは何か」「フェイクと憎悪」がある。
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