【連載】石原慎太郎 男の業の物語 第二十回『男の就職』


私は一度だけ就職試験を受けたことがある。

いや正確には二度だ。大学の寮での貧乏暮らしを楽しんでいるうちに就職試験の季節になっていて周りの仲間がそれぞれ銀行や商社に仕事が内定してしまっていて、私の行く先はもうろくなものが残ってはいなかった。

その頃、私の親友西村潔が彼も職にあぶれていて、私に二人してどこかの映画会社に入って映画監督にならないかと誘ってくれた。もともと映画好きの私としては映画会社の助監督なるものがいかに悲惨な仕事かもろくに考えずに、つい乗り気になった。

初めはすでに私が雑誌『文學界』に載せた作品を先物買いしてくれていた日活にした。そんな縁が効いて安かろうと思って願書を出したが、面接は有楽町の出来たての日活ホテルの一室で、呼ばれて入ったら正面に座った禿げた蛸みたいな堀久作社長が提出してあった手元の履歴書を眺めていきなり、

「お前は法学部だな。ならば法律のことを聞くか」

と言い出したので、遮って、

「ちょっと待ってください。実は私は法律が嫌いで途中から社会学部に移って主に社会心理学をやっていましたから」

と言ったら、

「そうか、お前は法律じゃないんだな。ならば聞くが」

言いかけるのを遮って、

「ちょっと待ってくださいよ。『お前』というのは失礼じゃないですか。私はまだ貴方の会社の社員に決まったわけじゃありませんからね」

言い返したら、

「じゃ何と言えばいいんだ」

「それは『君』とか『貴方』でしょうが」

たしなめたら鼻白んで、

「じゃあ、社会のことを聞くが、いま世界に国がいくつあるのかね」

社会心理学にはおよそ関係もないくだらぬ質問なので、確か並びの数字だったような気がして、

「えーと七十七でしたかな。いや八十八だったかな、ああ九十九かな」

言いかけたら、

「一体いくつまで競り上げるんだ。もういい」

即座に追い出された。扉の外にいた受付の若い社員がすぐに出てきた私に驚いて、「何か忘れ物でも」と質してきたものだった。

続けて受けた東宝ははるかにましで、冒頭受験者一同を前に担当の馬淵威雄専務が「本日は雨の中をご苦労さんでした。試験の結果には拘らずに胸を張ってさらに将来を目指してください」と実に紳士的な挨拶で救われた思いをさせられたものだった。

一次試験の後、助監督志望の者たちには別の「青い背広」というサラリーマン映画のためのシノプシスを書かされ、私としては一番苦手な問題が出されて往生したが、最後の面接の際にそれを自分で読み上げさせられ、いかにも出来の悪いショートストーリーを出任せに継ぎ足して読み上げたら、途中で名プロデューサーだった藤本真澄常務が遮って、「君、それはずいぶん長いじゃないか」と質してきたので、

「いや、実は我ながら出来が悪いので継ぎ足して読んでいました」 

と告白したら、

「君、それじゃまるで歌舞伎の勧進帳じゃないか」

と言われ、「ばれましたか」と頭を搔いたら一同大笑いで結果は合格となった。

しかしそれから間もなく芥川賞をもらってなんとか作家として食えそうだったので入社は辞退し、勧進帳の縁で藤本常務の企画顧問にされて、以来じかに映画製作についての機微をいろいろ教わり、たいそう役に立ったものだった。

ということで、私には就職の体験なるものは一際ないので人生の深みについて語る資格などありはしないが、日活と東宝という対照的な受験体験はサラリーマンなる種族の哀感を想像させてくれる意味では短くはあっても得がたい体験だったと感謝しているが。

いずれにせよ誰しも職を持たねば生きてはいけまいが、仕事を通じての他者との関わりは自我の摩滅を強いられる。しかしそれにいたずらに耐えるばかりでは男としての矜持は成り立ちはしない。

いきなり「お前」呼ばわりしてきた社長なる相手に腹を立てて最低限の儀礼を教えてやったことに何の後悔もないが、生まれて初めて目上の相手に自我を通したことに今でも大いに満足しているし、あれがあの後の私の生きざまを決めてくれたものとして自覚しているが。

第二十一回に続く


第十九回 『人生の失敗』

第十八回 『暗殺された友』

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石原慎太郎
石原慎太郎
Shintaro Ishihara 1932年神戸市生まれ。一橋大学卒業。55年、大学在学中に執筆した「太陽の季節」により第一回文學界新人賞を、翌年芥川賞を受賞。ミリオンセラーとなった『弟』や2016年の年間ベストセラー総合第一位に輝いた『天才』、『法華経を生きる』『老いてこそ人生』『子供あっての親-息子と私たち-』など著書多数。
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