広告制作の革命児・ノースショア 石井龍 事業に失敗、手持ち5万円からの再起

石井 龍氏が率いる会社ノースショアをWEBで検索すると、検索画面に「No.1 Only1をつくってゆくクリエイティブ集団」とある。クリックしてクライアントを見れば名だたるグローバル企業が並び、作品も見覚えのあるクリエイティブが多い。東京を軸に、京都、ハワイ、シドニーに拠点を持ち、業務委託も含めたスタッフの総数は150名以上。大きな存在感を業界に放っている。ほんの8年前。都内の事務所を引き払って千葉の実家の6畳間にこもり、鬱々とした毎日を送っていたとはとても信じられない。その時の所持金はわずか5万円。まさに追い込まれた状態だった。


2008年ディレクターとして独立。直後に訪れた災厄

当時22歳。石井氏はとある制作会社でCMのプロダクションマネジャーとして、そのキャリアをスタートさせた。実績を積むにつれてナショナルブランドの案件も任されるようになり、徐々に自信をつけていく。その頃から漠然と考えていることがあった。それは「40歳までにはCMディレクターとして独り立ちし、会社を設立したい」というものだった。

いつ、どのようにして、という綿密な計画があるわけではなかった。ただ、31歳で転機が訪れる。よく仕事を回してくれていた代理店の偉い人と、ある件で行き違いが生じてもめたのだ。実力にはある程度手応えを感じていたし、いくつかのクライアントからの信用も得ていた。「じゃあ、一人でやろうかな」と思い至る。所有していたマンションが買った時より高く売れ、ちょうど手元にお金ができたことも後押しした。

2008年2月、こうしてノースショアは産声を上げる。現在のオフィスがある麻布十番に近い白金の古い倉庫の1フロア。窓が広く解放感がある空間だった。こんなところで能力のある仲間と魅力あるものを制作できたら、と夢が膨らんだ。

ところがその直後、世界の経済を大きく揺さぶる大事件が起こる。リーマンショックだ。開業わずか7ヵ月後の出来事だった。能力もあり、これまで築いてきたコネクションもある。事業はうまく軌道に乗るはずだったが、業界に不安が走った。その時胸中に芽生えたのは、「このままやっていけるのか」という不安。自ら魂を注ぎ込んできたライフワークが揺らいで見えた。

その不安が新事業へと走らせる。取り組んだのは、なんとバイオディーゼル事業。まったくの異業種である。化石燃料を使わず、油性種子やてんぷら油など植物由来の原料をディーゼル車の燃料にしようというものだ。今でこそ次世代車はEV(電気自動車)がメインストリームだが、当時はハイブリッド車を主軸に、燃料電池車や天然ガス車などと並んで、バイオディーゼル車も名乗りを挙げていた。そこに可能性を感じての挑戦だった。

新事業は、自己資金と親類縁者などから調達した1億7000万円程の資金で始めた。元来、資料をつくったりプレゼンしたりするのは得意だった。資金はまたたく間に集まり、事業をスタートさせた。しかし、たった1年余で行き詰まり撤退。オフィスを引き払い、引っ越しを繰り返しながら、最終的に家族と千葉の実家の一室に身を寄せる。6畳間にMAC一台、そして現金5万円、そして家族。それが残ったすべててだった。

三方ヶ原での家康を自身に重ね、失意の底から再出発

当時の自分を、「引きこもりのような生活だった」と振り返る。そんな姿を見かねてか、ある時、父親が画用紙に書いたメッセージをくれた。記してあったのは「意思の力で成功しないときは好機の到来を待つしかない。」という文豪、ゲーテの言葉を引用したものだった。

父は1990年に会社を創業するも、直後にバブル経済が崩壊。苦節を耐えしのぎ、なんとか活路を見出して再起した経験を持つ。ゲーテのメッセージが書かれた画用紙は、当時苦境に立つ石井氏の父が、自らを奮い立たせるために書いたものだった。息子に自らの姿を投影し、エールを送ったのだ。

「啓発好き」と語る石井氏は、日常の会話の中に歴史上の人物が多く登場する。なかでも戦国武将では徳川家康に惹かれるという。千葉で雌伏の時を過ごしていた当時も、自らのありさまを家康に重ね合わせていた。家康は、エキセントリックな性格や後世に名を残す大胆な行動が少なく、江戸幕府を開いた功績の割には人気がそれほど高くない。しかし、その時々の変化やニーズに合わせて自分を変えていく、その柔軟性こそが、最後に大きな成功を収めたと、石井氏は考えている。

なかでも千葉にいた頃の境遇に響いたのが三方ヶ原の戦い(1572年)だという。家康はこの戦いで名将武田信玄の策にまんまとはまり、自陣に大きな痛手を負って命からがら逃げのびた。家康はこの時の悔しさ、惨めさを忘れないために絵を残している。有名な、通称「しかみ像」だ。家康はそれを生涯身近に置き、失敗を一生忘れないようにしたという。

石井氏は、千葉でもう一度自分を徹底的に見据え直した。そして、「やはり自分には広告制作しかない、これをもう一度、思い切りやり抜こう」そう心に刻んだ。

やってきたデジタルの大波に仲間のサーファーと乗る!

自社ブランディングとコミュニケーション醸成を目的に立ち上げた「サーフィン部」。社員たちとサーフィンを楽しむ石井氏(中央)。

リーマンショックの余波まだ冷めやらぬ中ではあったが、再起を賭けもう一度広告制作の世界に身を投じた石井氏が始めたこと、それは代理店をはじめ取引先への徹底した営業回りだった。

しかし、自らのディレクター実績を引っ提げて営業に行くものの、なかなか引き合いがない。理由は単純だった。広告制作はディレクターだけではどうしようもない。さまざまなクリエイターの優れた能力が結集して成り立つため、いくら優れたディレクターであっても、ディレクション業務だけを切り出して依頼するということはまれだからだ。つまりディレクターとして独立した弱みがそこにあった。

そこで石井氏は、仲間のクリエイターとチームで案件を受託することを目指した。知り合いのクリエイターに、案件を取ってくるから作品集を自分に預けてくれ、と頼んで回った。そして営業に臨んだ。ただ、営業先ではクリエイターの作品を見て「御社のスタッフですか?」と聞かれる。「そうです」とは答えられないものの、連携して仕事をこなしていく同志であることには変わりない。そこで、ライフワークでもあるサーフィンになぞらえ、「共通の大きな課題(波)を共に越えていくサーファー」という概念が芽生える。連携するフリーランスクリエイターを「サーファー」と呼ぶ現在のノースショアカルチャーのルーツがここにある。

ノースショアではクリエイターをサーファーと呼び、仕事場をビーチと呼ぶ。社名自体、世界一の波が来るとされるハワイの有名なサーフスポットが由来だ。石井氏には「自分がつくるノースショアも世界一大きな波を起こして、世界中からトップサーファー(クリエイター)が来るような、唯一無二の場所にしたい」との思いがある。一緒に仕事をする仲間をサーファーと呼ぶことは、その世界観からすれば至極当然のことだった。

共に仕事を形にする仲間をサーファーと紹介して営業するうち、徐々に案件が取れるようになり、より多くの仕事を回すためにより多くの仲間に声を掛け、だんだん規模が大きくなっていく。

広告を取り巻く環境の多様化も後押しした。以前は映像が主だったが、昨今は一つのプロモーションを行うにもCFだけでは終わらない。ポスターなど印刷物はもちろん、Webページ、バナー広告、アプリなど、アウトプットが爆発的に増えたのだ。それらをノースショアはワンストップでこなすため、依頼する側にとって手間が掛からず都合がよい。そしてクオリティーも高いのだから、次もオファーが入る。好循環ができていった。

ノースショア社内。カフェスペースとコワーキングスペース(左奥)。まるでハワイのホテルのラウンジにいるようだ。

クリエイターに代わって仕事を獲得するだけでなく、フリーランスクリエイターの仕事のスタイルにも着目した。彼らの多くは自らの仕事場で一心不乱に仕事をしており、なかなか横のつながりがない。そこで、ゆとりのあったオフィスの一角をコワーキングスペースとして開放した。ブースは有料だが、いくつもの打ち合わせテーブルがあるラウンジは、自由にクリエイターが利用でき、コミュニケーションも生まれる。

ある案件では、代理店がクリエイターを探す面談の場に使った例もあるというから驚く。ノースショアを素通りしていく案件すらありうるのに、だ。ただ、思いは固い。石井氏にとってサーファーは仲間でありリスペクトに値する存在、そんな思いがひしひしと伝わってくる。

必要なのは革新を起こす狂気じみた集中力

ところで名前の「龍」は「りょう」と読む。叔母の命名で、坂本龍馬にちなんだものだという。スケールの大きな人物にとの思いがあった。それは名付け親の一方的な思いでしかなかったかもしれないが、自然と意識に刷り込まれ、いつしか「何かスケールの大きなことをしてみんなを驚かせたい」と、どこかで意識するようになっていった。

また、父親が会社経営者だったことから、幼い頃「お前は将来何の社長になるんだ」と、冗談めかして言われていたという。そんな要素が現在の石井氏を形づくっていったのかもしれない。

「憧れの経営者は?」との問いに、ウォルト・ディズニー、スティーブ・ジョブズ、レイ・クロック、イーロン・マスクなどを挙げる。いずれもバランス派ではない。振り切れ方がすごいレジェンドばかりだ。

原点となった“千葉時代”、沈み込む自分を鼓舞しようと、「1兆円企業の社長になろう」とイメージしてみた。その頃の年間の売り上げは300万円程。毎年2.5倍くらいなら増やせるかな、と無邪気に計算してみると、10年超で1兆円に達したという。「あ、毎年前年の2.5倍頑張ればいけるんだ」そう思うと心が浮き立ち、「これでいこう!」と思った。

そして、今もその原点を忘れていない。何らかの重要な財務指標が1兆円に達することを目指している。それは経営計画でも正式な社長の号令でもなく、原動力であり、かなえるべき夢といったものだ。

ただ、現在の主業を伸ばしていくだけではその目的に到達できない、と読む。どこかで思い切りレバレッジを利かせ、幾何級数的な加速をすることが必要であり、そこにこそ、自らが挙げる経営者のようなディスラプティブな発想が必要だと考えている。名だたる名経営者に、自身のロールモデルを追い求めているのだろう。

何が「ノースショア」のグロースにブーストを掛けるのか。現在はまだ考えているところだ。だが、「要求されたクリエイティブを最高のクオリティーで納める」だけではなく、「能力そのものや、そこから生み出したものをマネジメントする」方向ではないか、とイメージしている。

「1兆円企業の社長になろう」と夢見たのが2010年。10年後は2020年だ。さすがにそれは難しいが、「1兆円はいつか?」の問いに、「2025年から30年までの間」と端的につぶやいた。

Ryo Ishii
高校卒業後ブラジルパラナ州にサッカー留学。帰国後、3DCG、映像編集、グラフィックスデザインを学び、卒業作品がTBSの番組で取り上げられ映像制作会社からCMの世界へ。その後広告制作会社に移り2004年に劇場公開映画「NO MUSIC, NO LIFE.」を監督。CMディレクターとして数々のナショナルクライアントを担当し、08年2月にnorthshoreInc.を設立。夢は「クリエイターのための楽園をつくり、フルCG映画で世界の子どもたちを熱狂させる」こと。
northshoreInc.
2008年2月に創業。社名は、ハワイ オアフ島北岸に位置するサーフポイントに由来。30m級のほとんど「壁」とも言えるBig Waveに挑むサーファーが集まる聖地のごとく、コミュニケーション領域でのクリエイティブ及びコンテンツ開発で、No.1 Only1を目指すクリエイティブブティックになることを事業理念に掲げている。あらゆるメディアに対応したクリエイティブ戦略立案、企画、制作を行うほか、コ・ワーキング事業や自社コンテンツ開発などへ、ビジネスの領域を広げている。
https://www.north-s.co.jp/

Text=田口雅典(MGT) Photograph=松川智一