老舗ビアホール・チェーンの総帥~元NHK記者・立岩陽一郎のLIFE SHIFT㉟

これまで華々しい実績を残してきたNHKを49歳にして去り、その翌日単身渡米。巨大エリートメディアを去った一人のジャーナリストが、さまざまな人の人生、LIFE SHIFTを伝えていく。第35回は、老舗ビアホール・ニユートーキヨー森 一憲氏のLIFE SHIFT。

度重なる危機を乗り切る中で体得したものとは?

新型コロナ禍が止まらない……と書くのも陳腐に思えるほど、既にそれはあらゆる人にふりかかっている。街を歩けば全ての人がマスクをしている。そして馴染みの店が次々に閉めていく。テレビで老舗のホテルが廃業するようなニュースって、ひと頃は特集が組まれるくらいの話だが、それが短いニュースで淡々と伝えられる。そのうち、今日の感染者数とともに、今日の倒産件数も報じられるのかもしれない。

そうした中で目に見えて苦境に立たされているのが飲食業だろう。感染拡大に歯止めがかからない中、さらに苦しい状況も予想される。人生の転機に自らの道を切り開く人々を主人公に描くLIFE SHIFTのシリーズだが、今回の主人公はそうした飲食チェーンの経営者だ。

日本のビアホールの草分けの一つ、ニユートーキヨー。全国に飲食業を展開するグループ企業だ。8月17日、そのグループを率いる森 一憲の姿は有楽町電機ビル内の店にあった。

店長に語りかける森。

「お客様の間隔は必要以上に空けてる?」

「はい」

指示と言うより、ざっくばらんに話すといった雰囲気だ。

入り口に「テイクアウトお弁当」と張り出している。ビアホールで弁当も出すのだろうか?

「お昼向けなんだけど、弁当はかなり出るんだよ」

そうか。なるほど。今はそういう時代なんだ……。

最初に断っておくと、森と私は昔からの知り合いだ。それ故、森の言葉が「俺、お前」といった友人との会話調になっている点はご承知いただきたい。

森のニユートーキヨーの創業は1937年。有楽町の数寄屋橋にあったその店は、長く有楽町のアイコンでもあった。今は本店は少し奥まった場所に移ったが、数寄屋橋のタクシー乗り場は「ニユートーキヨー前」のままだ。

従業員は店舗のスタッフを入れて1200人。仙台、東京、首都圏、京都、大阪、福岡にビアホール、中華、和食居酒屋など60店舗を構える。当然、新型コロナはその全ての事業に襲いかかっているのが現状だ。

森は、言った。

「先は見通せない。しかしお客様に安全に過ごしてもらう。それしかないんじゃないか」

森は小学校から大学まで吉祥寺にある成蹊学園で育った。欅並木が美しいその武蔵野のキャンパスに小学校から大学まで揃うその場所は、よく言えば良家の子女の通う学校、悪く言えばお坊ちゃん校だ。輩出した著名人と言えば、安倍総理大臣がその筆頭だろう。

ニユートーキヨーの創業者は祖父だ。そして父親が後を継ぎ、次の森……絵に描いたようなお坊ちゃん? そう水を向けると、遠い目をして言った。

「父親が高校3年で急死したんだ。大変だった……」

森はしばらく口を閉じた。そして言った。

「俺は大丈夫だったけど、家族はやっぱりきつかったと思う……」

森も大丈夫ではなかった筈だ。その時、森は高校ラグビー部の主将だった。

「母親も姉も大変だった。大黒柱を失った家族のショックは大きかったが、ラグビー部の主将として部員にそういう姿は見せられなかった」

森は昨日のことの様に言った。成蹊はラグビーが有名だ。森は小学校からラグビーを始め、大学までラグビー部で過ごしている。部員に弱い姿を見せられないとは、周囲の誰にも見せられないということだ。

1990年に大学を卒業し、三菱地所に入社。開発部門に配属されている。

「ニユートーキヨーに行く考えはなかったの?」

そう水を向けると、「そういう状況じゃなかったからね」と話した。父親が死去した後、既に会社の生え抜き社員や急遽入った叔父が祖父を支え、その後に社長になっている。

「将来的にニユートーキヨーに入るとしたら、銀行とかビール会社ということになるかと思う。その方が将来的にお付き合いができるし、いろいろとビジネスにはつながるから」

三菱地所は大学のラグビー部の先輩の誘いがあったという。大学入学が1年遅れた私は’91年に社会人になったが、当時はそういう時代だった。まだバブルは崩壊しておらず、大学のクラブの先輩の引きで一流企業に就職できた。言うまでもなく三菱地所は超一流企業だ。

「あの頃じゃなければ入れないよ」

森はそう言って笑った。ただ、なぜ不動産だったのか?

「不動産開発をやってみたかった」

森は東京の本社で3年過ごした後、大阪支店に配属されている。そこで、パークタウン開発を担当した。「東京のお坊ちゃん」が大阪で地権者と折衝などできるのだろうか?

「いやぁ、面白かった。酒持って行って、飲みながら自分の父親みたいな世代の人たちと話すんだけど、いろいろと勉強になった。大阪は忘れられない場所になった」

そう楽しそうに話した。森は’95年まで三菱地所で開発に携わる。そして退社。ニユートーキヨーに入社する。27才の時だ。既に社長は祖父の頃から支えた生え抜きの社員に代わっている。自分が将来、社長になるという意識はあったのか?

「そんなこと考える余裕はなかったかな」

ただ、ニユートーキヨーとしては将来の幹部候補として入れたことは間違いない。ところが、森は本部ではなく、数寄屋橋にあった本店で働いた。祖父が開業した歴史あるビアホールの現場だ。本人の希望だった。

「やっぱり現場が大事ということは三菱地所でも教わったことだった。現場を知らないでは何も言えない」

ところが、それは思いのほか大変な作業だった。森が苦笑いして言った。

「それがさ、ビールを運ぶのが難しくて」

入ってわかったのは、自分が何もできないということだった。

「オーダーが入るでしょ。ビアホールだから8人とか10人が一斉にビールを頼むわけよ。ところが俺はジョッキ2杯しか運べない」

つまり、お荷物?

「そう。自分より若いスタッフに『何してんだよ』、『さっさと運べよ』とか言われながら、こっちは必死でやるんだけど、両手に1杯ずつ持ったらそれで手一杯なわけだよ」

他の人は?

「10杯持つんだよ」

10杯?

「そう」

最初は年下の店員にこき使われていた。でも、認めてもらうしかない。それにはジョッキ10杯持てるようにならないといけない。必死だった。そこはラガーマンの根性と体力が森を支える。ジョッキを持てる数は徐々に増えていく。すると、周囲が森を認めるようなる。

「もっと持っていけるだろ」

「しゃーねーだろう、これが精一杯だ」

そういう会話が普通にできるようになり、間もなく10杯普通に運べるようになった。そうなると楽しい。そして半年余りが経ち、営業全般を見る本部に戻された。

因みに森にジョッキ10杯を持ってもらった。この全てにキンキンに冷えたビールを注ぐと、それは大変な作業だと思った。

既に森がニユートーキヨーに入った時はバブルが崩壊していた。各店舗の状況をつぶさに見るのが仕事となる。

コストダウンが業務の重要な部分を占めるようになる。食材の管理や仕入れを一括して作り物流を減らすなど、やれることはやって利益を維持する。

そして一息ついたと思ったら2007年のリーマンショックが起きた。人件費の削減にも手を付けざるを得ない。40歳で既に取締役の一人となっていた森は、年配の社員に転職を勧める役回りも担う。

「あんたの爺さんはそんなことはしなかった。もっと社員を大事にした」

古参の社員からそう言われた時はこたえた。しかし割り切るしかなかった。なんとかリーマンショックを乗り切る。すると3.11、2011年の東日本大震災だ。再び景気が冷え込む。

その時に森を支えたのは数寄屋橋で「何してんだよ」と言った店員達だった。現場の状況を森に伝えた。そして森は本部で何をどうすれば良いのか考える。客が何を求めているのか? 震災から復興する中で、人々も憩いの時間、憩いの場を求める筈だ。その場所にするには、現場の声が必要だった。それは森のところに次々に届けられた。

そうした中で、一つの答えが見つかる。ニユートーキヨーは全国に店舗を展開する。コスト削減という意味でチェーン店化してみたが、これでは、実は人々の憩いの場にはならない。

「それぞれの店がそれぞれの個性がある。それが大切なんだと気づいた」

各店でそれぞれの個性を発揮して頑張ってもらう。そこに生き残りを賭けた。すると、予想以上に早く復活することができた。

「一緒に走った奴とはやれるんだ」

森はあたかもラグビーを語るように当時について語った。

「勿論、採算がとれない店は閉めないといけない。そういう判断も含めて、若いころから一緒にやっていた仲間とは議論ができた」

その森にとっての最初のLIFE SHIFTは2014年。祖父の代からニユートーキヨーを支えてきた生え抜きの社長に社長室に呼ばれた。

「あとは宜しくね」

それは、その一言だった。森は「来るものが来た」と思いつつ、一言で答えた。

「わかりました」

森は47歳。祖父が始め、父親が志半ばで死去したニユートーキヨーのトップとなった。

どんな感じなの? そう尋ねてみた。

「暫く誰にも言えなかった……妻にも」

森はそう言って大きく息を吐いた。それ以上聞く必要はなかった。その話があって半年後に正式な発表となった。その後、祖父が作り森自身がニユートーキヨーの第一歩を歩んだ数寄屋橋本店を移転させた。銀座の象徴の一つが消えるということで、NHKのニュースにもなった。そのニュースに社長として自ら応対している森をテレビで見ていて、「大きな決断をしたなぁ」と思ったのを覚えている。

新たな本店は少し奥まったところになる。以前の様な銀座のアイコンとはならない。2階は宴会もできる広さだが入り口を入った1階は広くない。

それはどうなのか? と問うと、「1階を広くとると家賃が高くなるから」と言った。森は言わなかったが、こういう判断は、三菱地所で不動産を学ぶ中で培ったものかもしれない。

森に、社長として気を付けていることを尋ねた。

「言いたいことを素直に言う。それで、話が入ってくるような会社にしたい」

それはまさに度重なる危機を乗り切る中で森が体得したものなのかもしれない。

「社員に言っているのは、お客様の方を見て欲しいということ。現場も俺もお客様を見るべきなんだけど、それが案外と難しい。やはり、人間は簡単な方を選ぶ。簡単な方を選びたがる」

例えば?

「例えば大きな宴会でワインを出す時、例えば50人とかになると、薄いワイングラスは扱いにくい。だからワイングラスでも厚めのワイングラスを出したくなる。その方が楽なんだ。でも、やっぱりワインは薄いグラスで出した方がおいしいんだよ。『お客様には薄いワイングラスで出しなさい』と伝える」

森は仕事で時間がある時は、努めて夕食時に各店舗を回っている。そして、気づいたことは、フランクに伝えるようにしている。そうやって直接、店員と自分が話す場を持ちたいと考えている。

「うるさい奴と思われても嫌なので、そこは考えながらやっているけどね」

そう言って笑った。

そして今、新型コロナ禍が世界を覆う。飲食業を含めあらゆる業態が直撃を受けている。

「歓送迎会などが開かれる3月が稼ぎ時なのに、全くお客様が来ない状況だった」

そして緊急事態宣言。未曽有の事態だ。

「6月に店を開けて、売り上げが伸びた。お客様の数は以前の半分以下だが、兎に角、お客様にしっかり向き合う。それしかない」

この未曽有の事態が森にLIFE SHIFTを迫っている。森はどうやってこのLIFE SHIFTを乗り切ろうとしているのか?

「お客様のことは勿論だが、スタッフの安全も考えないといけない。レジにビニールを設置する。窓を開ける。パネルも置く。スタッフの安全を確保することが、お客様の来やすい環境になる。それで安全に飲んでもらう。そしてよりおいしいものを出す。ニユートーキヨーは安全な店と思われる。それに尽きる」

そう森は一気に話した。

その為に森は何が重要だと考えているのか?

「人に信頼されるってことじゃないか。今を乗り切るというのと違うかもしれないけど、30代、40代で出会った人、20代で出会った人……知り合っていて良かったと思う人がいっぱいいる」

森は何度も「人」を強調した。その中には成蹊のラグビーで培った人脈も、三菱地所で培った人脈も、そしてニユートーキヨーで最初に店に出て苦楽を共にして培った仲間もあるのだろう。

「みんなに助けられている。グループの総帥? そんな意識はない。俺はそういう性格じゃなって、知ってるだろ? そもそも、俺は近寄りがたい人間ではない。だからと言って、なぁなぁは良くない。そのバランスは大事だと思う」

ニユートーキヨーのホームページに会社の組織図が描かれている。面白いのは、一番上に書かれているのが「お客様」。その下に、「本社」と東西各エリアの「店舗」。そしてその下に「社長」と書いている。

客がいてくれて店があって、そしてその下に社長ってこと? そう問うと言った。

「そう。そういう感じ」

そして少し照れて見せた。

㊱に続く

立岩陽一郎
立岩陽一郎
調査報道を専門とする認定NPO「インファクト」編集長。一橋大学卒業。NHKで初めて戦場特派員としてイラク、クウェートを取材。社会部記者、1年間の米国留学の後、国際報道局デスクを経験するなど華々しいキャリアを築くも「パナマ文書」の取材を最後に49歳にしてNHKを辞職しその翌日渡米。現在は公益法人「政治資金センター」理事や毎日放送「ちちんぷいぷい」のレギュラー・コメンテータ、ニュースメディアへこれまで培ってきた報道の世界の鋭い目線で記事を提供するなど活動の幅は多岐に渡る。著書に「ファクトチェック最前線」「トランプ報道のフェイクとファクト」「NPOメディアが切り開くジャーナリズム」「トランプ王国の素顔」、共著に「ファクトチェックとは何か」「フェイクと憎悪」がある。
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