羽生と藤井のはざまで戦い続ける佐藤名人の挟持 ~ビジネスパーソンのための実践的言語学④

最近、説明や謝罪時の、違和感のある言葉遣いが話題になりがちだ。当コラムでは、実際の発言を例にとり、公私の場で失敗しない言葉の用い方を考える。ビジネスパーソンのための実践言語学講座、いざ開講!


「羽生さんを応援する方にも楽しんでいただける将棋をさせたらいいなと思っていた」
―――佐藤天彦名人

間もなく公開される松田龍平主演の映画『泣き虫しょったんの奇跡』は、一度はプロ将棋棋士への道を閉ざされた男がサラリーマン生活を経て、ふたたびプロを目指すという物語。実話に基づくサクセスストーリーなのだが、将棋界で生き残ることの厳しさが描かれているのも印象深い。

この物語の主人公のモデルは、現在も将棋界で活躍を続ける瀬川晶司五段。彼は35歳だった2005年、実に61年ぶりとなるアマチュアからプロへの編入試験(6番勝負のうち3勝すれば合格)を受け、見事にその厳しい勝負を勝ち抜くのだが、その6番勝負の最初の“試験官”となったのが、当時17歳で三段だった佐藤天彦名人だ。ちなみに公開対局として多くの将棋ファン注目のなか行われたこの対局は佐藤三段が勝利。18歳年上の棋士を相手に堂々の勝利をおさめている。

失礼を承知で書くのだが、佐藤天彦名人の一般的な知名度は、それほど高くないといわざるをえない。現在、将棋にそれほど関心のない層が名前を知っている将棋棋士は、将棋史上最強といわれ、国民栄誉賞を受賞した47歳の羽生善治竜王と、プロ入り以来破竹の快進撃を続けている16歳の藤井聡太七段の二人だけだろう。30歳の佐藤名人は、まさにそのはざまの世代。永世名人の資格を持つ森内俊之九段や永世棋聖の資格を持つ佐藤康光将棋連盟会長など、いわゆる羽生世代を仰ぎ見ながら育った棋士だ。

「羽生さんを応援する方にも楽しんでいただける将棋をさせたらいいなと思っていた」

これは7月20日、4月から6月にかけて行われた名人戦で挑戦者の羽生竜王を4勝2敗で破り、三連覇を果たした佐藤名人が就位式で語ったあいさつの言葉。羽生竜王が国民栄誉賞を受賞したタイミングで、前人未到の100タイトル目を目指した名人戦。記念すべきタイトルが将棋界で最高の栄誉とされる名人であれば、これ以上のドラマはないということで、羽生竜王の名人位奪取を期待する声も多かった。名人の発言も、この自らに吹いていた逆風を意識してのことだったのは間違いない。しかしそこには、ひねくれた自意識は感じられず、むしろ現状を冷静に受け止め、それを楽しんだ余裕すら感じられる。

将棋の世界には独特の美学がある。プロの世界においてはほとんどの場合、敗者が「負けました」と“投了”することで勝負が決する。もちろん最終的にはいわゆる「詰み」の状態になるのだが、プロの場合、その数手どころか、数十手手前で先の展開を読んで投了するのが常だ。素人目には、このあとどう展開して「詰む」のかわからないことも少なくない。さらにこの投了で勝負が決したあとに、勝者と敗者が戦いを振り返る“感想戦”を行うのが恒例だ。この感想戦では多くの場合、敗者が自らの敗因や相手の好手について語り、勝者はほぼ相づちをうつのみ。勝者が勝ち誇ることも、敗者が負け惜しみを言うこともない。

以前は、対局前後や対局中の言動で相手の心理を乱そうとする“盤外戦術”を用いる棋士もいたが、羽生世代以降はそういったプロ棋士はほとんどいない。近年の将棋においては、対局相手へのリスペクトがもっとも重んじられていると言っていいだろう。

小学校時代から羽生竜王のライバルであった森内九段は、自著でこう記している。

「どんなときでも勝利を求める姿勢を失うことはない。だが、将棋には、二人で一枚の絵画を描くことや、二人で音楽を奏でたりすることに似た芸術的な一面がどこかにある。互いが局面ごとに最善手を指し続けてできるのが“美しい棋譜”であり、棋士にとってはそのような将棋を指すことが目標でもある」(『覆す力』より)

鉄壁の力と揺るがぬ実績を持つ先輩がいて、龍の如き勢いで迫ってくる後輩がいる。佐藤名人は将棋界の第一人者でありながら、世間の注目はその二人におよばない。佐藤名人へのインタビューでもその二人について聞かれることも多いはずだ。ワイドショーなどが馬鹿騒ぎを繰り返すフィーバーのなかで、思わず自虐や皮肉を口にしたくもなることもあるのではないだろうか。それでも「羽生さんを応援する方にも」と言える30歳。17歳で瀬川五段の編入試験の相手をつとめたときも、ファンの期待は「奇跡のプロ編入」だった。そんななかでも彼は、冷静に戦い、瀬川五段から勝利をおさめた。そういった数々の経験が佐藤名人を強くし、自信と余裕を与えているのだろう。彼のコメントは、まさに名人の称号にふさわしい。プレッシャーに弱かったり、いつも誰かをうらやんでしまうという人は、彼から学べることが多いはずだ。


Text=星野三千雄


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