信長見聞録 天下人の実像 ~第二十章 安土城〜

織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

信長のコトバ:「大名小名によらず、御礼銭百文づつ、自身持参候へ」

天正四年一月中旬、近江の安土山で城の普請が始まる。この普請は翌月に終わり、信長は岐阜から引き移るのだが、それはほんの手始めだった。本格的な石垣の建設が始まったのは、この年の四月一日だった。

ただの建設ではない。ひとつの石を運び上げるのに数千人、なかには一万人を要する巨石もあったという。ピラミッドの建造にも匹敵する巨大土木工事を経て石垣が組まれ、その上にあの有名な地下一階地上六階の安土城天守(天主)閣などの建造物群が築かれることになる。

信長の建設は早い。通常なら一年二年という期間を要するような工事も、数ヵ月で終わらせるのが常だったが、この天守の完成までには三年の歳月を要している。工事の規模があまりに大きかったというだけでなく、建築物の内装の細工が贅を尽くし、精緻を極めたものだったからだ。信長が安土城天守に移ったのは天正七年五月十一日だが、安土城の主立った建築物の内部を大々的に披露したのは、天正十年のことだった。

この年の正月一日、近隣の大名小名や織田家一門はそれぞれ安土に滞在し、年頭の挨拶のために城に登った。大変な人数が押し寄せたため、山裾に積んだ石垣が崩れ多数の怪我人と死者が出るほどだったという。今年は安土城の見物ができるというので、夥しい数の年始客が集まったのだろう。

信長もそれは心得ていたようで、側近の堀秀政と長谷川秀一を通じて「今度は、大名小名によらず、御礼銭百文づつ、自身持参候へ」※ という通達が出されていた。「自身持参候へ」というのは、供の者に持たせず自分自身で百文を持参せよということだ。どういうことかと首を傾げた者も少なくなかったはずだ。

人々は天守閣下の白州でそれぞれ信長から声をかけられ、室内のすべてが金で装飾された天皇の御幸の間(天皇の行幸を予定してつくられた)まで見物を許されるのだが、その後で「台所口へ参れ」と促されて行くと、廐の入り口に、なんと信長本人が待ち構えている。

百文を持参せよという通達はこの時のためで、信長は直接百文の礼銭を受け取り、後ろ手に廐に投げ入れたという。つまり信長自らが、安土城の見物料を受け取るという趣向だった。

本人はもちろん知るよしもないことだが、この正月が信長最後の正月となった。若かりし頃の信長は、村の年寄りたちと盆踊りに興じ、彼らを身近に招き寄せ、誰の踊りが上手いとか剽軽だとか親しく声をかけ、団扇であおいでやったり、茶を飲ませたりしたという。安土城の見物料を自ら徴集したのも心は同じだろう。彼は人々が安土城を見て驚き喜ぶ顔をその目で見たかったのだ。晩年になっても信長の心根は若い頃と変わらなかったということなのだろう。

しかし、彼が心血を注いだ安土城の大半は、その後半年もしないうちに焼失する。出火の原因はよくわかっていない。

本能寺の変の報せが安土に伝わったのは、天正十年六月二日午前十時頃とされている。この時安土城にいた信長の妻子を逃した留守居役の蒲生賢秀は、敵に利用されぬように城に火を放つべきだという意見を退け、財宝にもいっさい手をつけず退城している。安土城に火をかけるのに忍びなかったのだ。

『太閤記』には、明智光秀から守備を任された女婿の明智秀満が焼いたと記されているが、この説も怪しい。山崎の戦いで光秀が敗れ、秀満が安土城を退去したのは天正十年六月十四日未明だが、城から火が出たのは翌十五日のことなのだ。

※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)348ページより引用

Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。