劇団の役者から本屋の主へ ~元NHKスクープ記者 立岩陽一郎のLIFE SHIFT第23回

これまで華々しい実績を残してきたNHKを49歳にして去り、その翌日単身渡米。巨大エリートメディアを去った一人のジャーナリストが、さまざまな人の人生、ライフシフトを伝えていく。


大阪の下町の手作り書店

お盆休みに台風の接近が重なった8月中旬、地下鉄の車内は閑散としていた。数えてみると私を入れて22人。で、なぜそんなことを数えたかと言うと、この日のライフシフトと関係する。本だ。この22人の中で本を開いていた人は1人しかいなかった。半数以上の12人がスマホを見ていた。私は……そういう人たちを見ていた。

そうか、22人のうち1人しか本を開いていないのか。と、自分も本を開いていないことを棚に上げて、それを嘆いていた次第。

本を読む人が少なくなっていることは、本屋が次々に閉店することでもわかる。閉店していなくても、どこも書店は厳しい経営を迫られている。そうしたこともあって、私は、書店から頼まれれば無料でイベントを引き受けることにしている。その中で知り合った1人の書店の主が今回のライフシフトの主人公だ。

大阪。買い物客や旅行客でごった返す「あべのハルカス」の真下にある大阪阿倍野橋駅から4駅行くと針中野という駅がある。駅から直ぐアーケード街が続く。駒川商店街だ。店舗数230を数えるその規模の大きさから大阪三大商店街とも呼ばれる。

駅からアーケードを入って直ぐの路地に入ったところに、ちょっと洒落た書店がある。

「『本』のお店 スタントン」。それが店名だ。

店に入ると書棚に並んだ児童書が目に入る。そして子供たちが椅子に座り、思い思いに絵本を広げている。中央のテーブルには大人向けの新刊本が置かれている。子供を連れてきたお母さんだろうか、若い女性が本を物色している。

奥には大人の本を中心に古本が並んでいる。書棚の配置や本の置き方に都会的なセンスを感じさせる。が、どことなく手作り感も漂う。それはその筈で、まさにここは手作りの書店だ。

「大して努力して作ったわけじゃないんですよ。借りた時にこういう状態でしたから、私のセンスとか言われると少し恥ずかしい感じです」

カウンターで笑ったのは田中利裕さん(47)。店主だ。

面白い経歴だ。大阪芸術大学で学び、最初は劇団で役者をしていた。30歳を過ぎるまで演劇に没頭し、その後、大阪を中心に書店を展開していた会社に入社。

本好きということもあり、すぐに頭角を現す。入って4年で店長に抜擢された。それが今の店から少ししか離れていない針中野駅の目の前の店舗だった。それから10年余り、今、その会社を辞めて自ら書店を経営する立場だ。

本屋のない商店街にしたくない

私が田中さんと出会ったのは、サラリーマン店長として書店を仕切っていた時のことだ。その店も、品揃えと雰囲気が気に入って時折顔を出していたのだが、子供相手に紙芝居や読み聞かせのイベントを開催するなど面白い試みを行っていた。

何度目かに店に顔を出した際、店長としてレジにいた田中さんに話しかけてみた。ちょうど奥で紙芝居をやっていた。

「面白いイベントをやられているんですね」

「紙芝居ですか? ええ、助かっています。やはりお子さんに楽しんでもらえるのは大きいですね」

田中さんの話では、単なる慈善事業ではない。「それなりの計算もある」という。お子さんは書店にとって大事な顧客だし、更に言えば、そのお子さんを、否、お子さんが連れてくるお母さんが大事な顧客であることも間違いない。

田中さんと話をしていて、一つ提案をしてみた。

「私、こういう本を書いたのですが、それを売るためのお話会的なことはできませんか?」

当時の私はアメリカから帰国して2冊目の本となる「トランプ王国の素顔」を出したところだった。テレビにも出始めていたが、まだ知られた存在ではない……今もそうだが。自分が出した本の宣伝をかねてお話し会でもできないだろうか。そういう提案だ。

「あ、それはいいですね」

田中さんが当時の私のことをどれだけ知っていたのかはわからないが、気持ちよく引き受けてくれた。

そのやり取りから暫くして私の会が開かれ、主婦の方など30人ほどを前に本の宣伝をかねて話をさせてもらった。

ところが、それから暫くして田中さんから驚くような事実を伝えられた。

「あの、会社の決定でこの書店を閉めることになったんです」

なんとも残念だが、サラリーマン故に会社の判断には従わないといけない。それをしないなら私の様にライフシフトをしないといけない。勿論、そんなことを田中さんがするわけがない……などと思っていると、話は更に驚くような展開を見せた。

「会社の判断は仕方ないんですが、私としては書店の店長として充実した日々を送っていたんです。地域の皆さんとも良い交流をさせて頂いていましたし」

私は黙って聞いていた。

「実は、書店を続けようと思っています」

は?

「既に近くに物件をおさえました」

会社の了解を得たということですか?

「いえ、会社を辞めることにしました」

会社には既に伝えているのだという。

書店のある駒川商店街は大阪でも有数の活気ある商店街だろう。それでも、書店は田中さんが店長を務める書店しかなかった。それがなくなれば、書店のない商店街となってしまう。

「皆さんに愛されてきた本屋で、本当にやり甲斐がありました。それに、ここを本屋のない商店街にはしたくないんです」

嬉しかった。しかし、ちょっとした悲壮感を感じなくもない。

「田中さん、素晴らしいです。私にできることは言ってください」

「お願いします」

こうして「『本』のお店 スタントン」が開店したのは2018年11月23日。本人の話だと、元手はさほどかからなかったという。

「150万円もかかっていないと思います」

整骨院だった場所をおさえて、あまり内装も変えずに書店に衣替えしたという。それがこんなにお洒落な書店に変わるものかと驚く。

「書棚は前の会社から譲り受けました。後は、新刊を準備したり、でも、多く見積もって150万円ですかね。そんなにもかかってないかと思います」

オープンから9ヵ月になる。子供連れのお母さん方を中心とした常連客ができつつある。そんなある日のことだ。私はその商店街を歩いていて一人の年配の女性に呼び止められた。

「立岩さんですよね。『ちちんぷいぷい』で見てます。あなたの本を買いたいんだけど、どこに売っているのかしら」

「ちちんぷいぷい」とは大阪の毎日放送で平日に放送している情報番組だ。私はそこで週に一度、コメンテーターをさせてもらっている。その女性とは面識はないが、20年続く長寿番組だけに、こうして話しかけられることは度々ある。

「ああ、それでしたら、針中野駅の前のYahoo!モバイルの店の前の路地を少し入って頂ければスタントンという本屋さんがあります」

そう言って、アーケードの先を指さした。

「あの本屋さんは閉まったんじゃないですか?」

「ああ、そうなんですけど、その本屋さんの店長さんが、自分で新たな本屋さんを始めたんです。是非行ってみてください」

女性は納得した顔をして去っていった。

商店街にあるといっても、正確にはアーケード通りから脇に少し入ったところにある。アーケードの並びではないので、買い物途中に目にとめるという立地ではない。このため、アーケードの通りに「スタントン」と書いた大きな看板を置いているが、買い物客が目にとめるほどのものではないようだ。いずれにせよ、知られるにはまだ時間が必要なのかもしれない。

ないと困る。それが本屋

その件があった後、田中さんを誘って商店街の洋食屋で食事をした。

「まだ知名度はいまひとつですね」

「ええ、アーケードとそこから離れるとじゃ、やはり知名度は変わりますね。でも、アーケード内の店だとまたいろいろと支払いが生じるんです」

なるほど、そういうことか。私もそうだが、サラリーマンを辞めて一から何かやる時に一番迷うのが、どれだけ投資をするかだ。金はかけないといけないが、リターンを計算しないといけない。

「今は月の経費とトントンですね。まだ、書店だけで生活できるまではいっていないのが現状です」

奥様が働いているので、なんとかやっていけるという状況だという。

「でも、商店街に本屋ってやっぱりあった方が良いじゃないですか。そう言って本を買ってくれるお客さんも多いんですよ」

新刊本を買ってもらい、それをまた買い取る。買い取った本は奥の古本コーナーで売る。そういうサイクルが少し回り始めているという。

「あと、寺子屋もやりたいんですよ。立岩さんに以前、やってもらったトークイベントあるじゃないですか。ああいうのを定期的にやりたいんですよ」

「いいですね。私で良ければ協力させてもらいますよ」

ところで、と気になっていたことを尋ねた。

「なんでスタントンなんですか?」

店名だ。スタントン……どうもしっくり来なかった。大リーガーにスタントンという大物選手がいるが……?

「ああ、大リーグの選手かと尋ねられるんですが、全く関係ないんですよ」

では、何だろう?

「スタントンっていう役者がいたんですよ。名脇役といった感じの役者なんですが」

ハリウッドの?

「ええ、主役をやるような役者じゃないんですよ。でも、好きなんです」

調べるとハリー・ディーン・スタントンだった。2017年9月15日に死去するまで100本以上の映画に出演した名脇役だ。名前は知らなくても顔を見たらわかる人は多いだろう。私も何度か映画館で目にした顔だと思い出した。

主役じゃないという点に妙に納得したのは、田中さんの次の言葉があったからだ。

「本屋、というか、本はけして人の生活で主役ではないと思うんです。衣食足りてって、言うじゃないですか。それと同じで商店街でも、いろいろな店があって、そこに本屋が在る。脇役ですよね。でも、ないと困る。それが本屋だと私は思っているんです」

そう言い切った田中さん。しかし、このライフシフトの中では、田中さんは間違いなく主役だ。否、そもそも人の人生に主役も脇役もないのかもしれない。皆が主役であり、そして皆がある時は脇役になる。

田中さんのライフシフト、応援していきたい。

24回に続く