【阿部勇樹】「ビスマルクをよく見ておけ」高3で出場のJリーグ開幕戦で掴んだもの

2019年10月23日。ACL準決勝セカンドレグ。中国・広州で行われた広州戦で阿部勇樹は先発出場している。ファーストレグを2-0で終えた浦和の優位はアウェイでも変わらない。それでもスタジアムをぎっしり埋めたサポーターの声援を背に広州の猛攻は迫力を増していた。そんななか、チームの中心に立ち、攻守のバランスの舵を握った阿部。試合は1-0で終了し、自身3度目のACL決勝の舞台に進んだ。


高2の夏、ガンバ大阪戦でJリーグ初出場

1997年、ジュニアユースからユースへ昇格すると、トップチームの練習に参加する機会が増えた。当時のJリーグは2ステージ制で、全18チームが総当たりのリーグ戦が2度あるので、リーグ戦だけでも年間34試合を戦う熾烈なリーグだった。だから保有選手数も各クラブ30名を超えていた。しかし、ベンチ入り選手は5名のみ。試合に出られない選手のために行われていたサテライトリーグにユースチームの選手が帯同する機会も少なくなかったからだ。東京学館浦安高等学校での授業が終わると、そのまま舞浜の練習場へ向かった。

1997年8月23日対清水戦で初めてベンチ入りを果たしたが、それ以降のベンチ入りはない。そして1998年8月5日、高2の夏、ガンバ大阪戦で後半44分に途中出場する。野々村芳和さんや酒井友之くんが帯同できず、僕にベンチ入りのチャンスが巡ってきたのだろう。2-2で迎えた89分スコルテンと交代した。

当時のJリーグは延長Vゴール方式。決着がつくまで試合は続く。緊張はなかった。すぐに延長戦へ突入したものの、99分播戸竜二さんのゴールが決まり、僕らジェフはVゴールで敗れた。僕の出場は当時の最年少記録更新ということで、試合後は多くの記者が僕を囲んだ。「途中から何をやればいいのかわからなくなった。集中力が切れて、プレーに迷いがあった」と僕のコメントが当時の新聞記事に残っている。

とにかく、自分は何もできなかったという現実が大きくのしかかった。

そして、高校3年生になった1999年、リーグ開幕戦。国立競技場での対鹿島アントラーズ戦でベンチ入り。開始0分に先制され、28分に追加点を決められていた。

「ビスマルクをよく見ておけ」

0-2で迎えたハーフタイム。僕はゲルト・エンゲルス監督からそう指示を受けて、ピッチに送り出された。前年度リーグ覇者鹿島の背番号10を担うビスマルクを相手に何ができるのか。不思議と不安よりも、ワクワクするような気持ちになった。けれど、後半にも2失点し、試合は0-4で終了する。チームとしての力の差は歴然だった。僕もチームに還元できるよいプレーはできなかった。それでも、数回はボール奪取にも成功し、わずかな手ごたえは掴めた。もちろん、点数差が開いている状態だったからこそ、できたプレーだったのかもしれないが……。

その後、僕はすべての試合に先発起用された。しかし、チームの成績は芳しくなく、ジェフは残留争いに巻き込まれていく。

シドニー五輪代表に追加招集

9月5日、シドニー五輪を目指すU-22代表に追加招集される。Jリーグの試合に出場してはいるけれど、僕はアマチュア選手。代表のなかでは唯一のアマチュアだったと思う。制服を着て、宿舎のホテルへ向かった。翌6日の夕食では、フィリップ・トルシエ監督以下スタッフや選手たちが、僕の誕生日を祝ってくれた。ケーキまで用意してくれたのは、本当に驚いた。

2連勝で迎えたリーグ終盤に鹿島、名古屋、浦和、神戸に4連敗を喫している。特に残留を争う浦和と神戸に敗れたのは痛かった。しかし、残り2試合を連勝してシーズン終了。15チームで戦った2ステージの合計で争われる残留争い。浦和、福岡、市原が勝ち点28点で並び、僕らは得失点差で13位になり残留を果たす。降格した15位浦和との得失点差は-4点。第14節の福岡戦を5-0で勝利したことが効いた。

自分が先発を続けたシーズンで、チームを降格させなくてよかった。その安堵感は大きかった。

けれど、今思うと寂しさを味わったシーズンでもあった。トップチームの一員だから、仕方がないと思いながらも、出られないユースの試合があった。ジェフ市原で戦うクラブユース選手権やJユースカップ。同級生が戦っているのをベンチのそばで見ているだけだった。そして、国体。当時は市立船橋高校が高校選手権で好成績を残すなど、千葉には多くの優秀な選手がいた。そんな千葉県選抜は、静岡選抜を6-0で破って優勝している。2年前に対戦したとき、僕は小野伸二くんや高原直泰くんなどを擁する静岡に歯が立たなかった。結果を残した仲間が誇らしくて、ちょっと羨ましかった。
 
同期の佐藤勇人や寿人が僕のことをどんなふうに見ていたのかはわからない。ジェフを離れた場所では、僕が高校生ながらトップチームでプレーしていることを快く思わない人たちもいただろうと思う。

しかし、トップチームのピッチに立つうえで、高校生という肩書きもアマチュアという立場も関係はなかった。誰もそんなふうには見てはくれないし、自分自身がそれを言い訳にすることもなかった。自分に足りないものを痛感はしても、クラブを代表してピッチに立っているという責任を担いたいと考えていた。まだまだ未熟ではあったけれど、ジェフというクラブが甘えを許さない環境だったことに感謝している。

Yuki Abe
1981年千葉県生まれ。浦和レッズ所属。ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出される。'98年、ジェフユナイテッド市原にて、16歳と333日という当時のJ1の最年少記録を打ちたて、Jリーグデビューを飾る。2007年、浦和レッズに移籍。2010年W杯終了後、イングランドのレスター・シティに移籍。'12年浦和に復帰。国際Aマッチ53試合、3得点。


Text=寺野典子 Photograph=杉田祐一



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①ブレない精神を最初に教わった師とは?

②ネガティブな僕がポジティブに進化した瞬間

③飛び級で招集された黄金世代の合宿

④怪我の多かった阿部勇樹が鉄人と呼ばれるようになった理由

⑤中学からともにプレーした佐藤勇人の引退に想うこと