【小橋賢児の半生④】僕が27歳で芸能界から退いた理由

先日開催された「ULTRA JAPAN」(主催:Avex)。3日間で12万人の来場者を熱狂させたダンスミュージックフェスを、5年前からクリエイティブディレクター(現在はクリエイティブアドバイザー)として関わってきたのが小橋賢児だ。その名に聞き覚えのある人はかなりいるだろうが、彼のどの顔を知っているかは人によりバラバラではないか。 俳優、映画監督、イベントプロデュース……。時期によって注目される側面が次々と変わっていく、まさにマルチな活動ぶりだ。いまや特定の領域に閉じこもってばかりいては、先が拓けない時代。 ジャンルを軽やかに跳び越えていく者だけが、真に革新的なことを為し得る。それを見事に体現する小橋賢児が自身の半生を語る。  


男は30歳からが勝負だと思っていた

自分で自分の感覚を塞いでいくのはつらいけれど、それでも続けていくしかない。NHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」にも出演していた20歳前後の頃は、放映中の連ドラ、次クールの連ドラ、単発ドラマ、バラエティ出演……。5、6本の仕事を掛け持ちすることもあった。

役者って本来、インプットするものがあってこそいい演技、アウトプットができるもの。そんなペースで役を演じていくのはいいことじゃないと、内心では強く感じていた。ましてや本当にイケてると思っていた世界と遮断されて、ろくにインプットもできない状態。八方塞がりだ。

しかし、仕事は次々とこなさなくちゃいけない。現場に行って服を着替えて、不良の役をやる。2時間後にはまた着替えをして、今度はなぜか真面目な生徒役をしていたり。そんなときに、ふと思った。もしも自分が後に何か名を成して、生涯が映画化されることになったとしたら、今の俺みたいに心から役柄に入り込めていない役者に演じてもらいたくはないな、と。

こんなこともあった。雑誌の企画でトム・ハンクスと対談できることになったのだ。「フォレスト・ガンプ」が日本で大ヒットしたあとの頃のこと。その取材は「アポロ13」のプロモーションの一環だった。

米国まで飛んで、指定されたホテルのスイートルームへ赴いた。で男性が立っていたから、ああこの人がと思って握手をすると、周りが「違う違う、その人はガードマンだ」と言う。部屋の奥を見ると、気弱そうなおじさんがポツリと座っていた。それがトム・ハンクスだった。

え、スクリーンで観るイメージとぜんぜん違うじゃないか。そう思いながら話を聞いて、物腰もすごく柔らかい人だったから、思いきって言ってしまった。「正直、あなたがトム・ハンクスご本人だとは気づきませんでした」と。

「ハハ、そりゃそうだよ。ここにいるのは『フォレスト・ガンプ』のトムでもなければ『アポロ13』のトムでもない。ただのふつうのトム・ハンクスさ」

ああそうか、役者ってこういうことか! と気づかされた。トム・ハンクスは、日本で仕事をしている僕らみたいに毎日コロコロ何かの役になるんじゃなくて、何ヵ月も集中して役づくりをしてその人物になりきり、終われば時間をかけてその役を自分から降ろして、普通の人へと戻る。そうして次の役になりきるまでにしっかりとインターバルを空ける。

そういうメリハリがないと、本当の役になりきることなんてできないんだ。トム・ハンクスくらい変幻自在な役者になりたいと憧れた。でも、日本の芸能界じゃ望むべくもない。そんな悠長なペースで仕事をするわけにもいかない。しかたのないこととはいえ、モヤモヤした気持ちが募った。

生活パターンも、どうしてもその業界に染まっていってしまう。仕事が終わると、芸能界の人はよく飲むから、朝まで飲んでそのまま仕事場へ直行して、合間に寝ているような生活。いま思えば、生きている実感があまりしなかった。

そうして20代半ばに差しかかったころ、ふとこの先のことをおぼろげに考えた。そういえば昔からなぜか、男は30歳からが勝負だという気持ちだけは強く抱いていたものだった。その年齢は近づいてきている。自分はこのままでいいのか?

いまの地位に必死にしがみついていたら、それなりのポジションと生活は維持できるかもしれないけれど、それはどうなんだろう。自分の気持ちにどこかウソをつきながら居場所をなんとかキープして、それがはたして自分の人生なんだろうか。疑問は募った。

そうはいっても現実としては、いきなり俳優をやめるわけにもいかない。まずは環境を変えようと、同業者とばかり遊ぶのをやめた。代わりにクリエイターの人たちとかかわるようになったのだけど、彼らの遊び方は芸能界のそれとはずいぶん違った。大自然の中に出かけていってキャンプをしたり、満天の星を見ながら未来を語り合ったり。ずいぶん健康的で新鮮だった。

あるときは沖縄の静かな入り江で、満天の星空を見上げて無数の流れ星を目にした。そんなすばらしい体験をした半年ほど後、一緒にその場にいた人が「あの体験をゲームにしてみたんだ」と見せてくれた。ああ、クリエイターってすごいな。感銘を受けた。自然から最高のインプットを得て、それをあっという間にアウトプットへつなげてしまうのだから。

そういえば子どもの頃って、ごく自然にインプットとアウトプットが回転していたはずじゃないか。あの感覚をもっと取り戻したいと強く思った。それから、あちこち旅に出るようになっていった。日帰りになるとわかっていても沖縄の離島まで出かけたり、国内外の山に登ってみたり。

人に勧められて、ネパールにも行った。ヒマラヤでトレッキングしていたら、絶えず自分の中にインスピレーションが降りてくる状態を味わった。毎時間、気づきだらけで、ずっとナチュラル・ハイで。

山から降りて、たまたま話しかけてきた地元の男性が、よければうちに来いよと言う。悪い人間じゃなさそうだったからついていくと、3畳ほどしかない部屋に奥さんと娘と暮らしていて、子どもを学校に行かせるお金はないんだと言いながら、客人の僕には夕飯をふるまってくれた。

食事を終えたあと、夕日が見たいと願い出ると、バイクで丘の上まで行こうとなった。二人乗りで後部座席に座っていると、彼の背中が急に大きく見えてきた。気づけば、わけもわからず僕は号泣していた。

あとあと考えれば、人の親切に感動したというのではなくて、彼と僕の人間力の差を目の当たりにして、悔しさまじりに泣けてしまったのだと思う。彼はつつましい生活をしながら家族を守って、出会った人には優しさを惜しげなく与える。今を生きている、という感じがした。

片や自分はどうか。小さい立場を必死に守っているだけで、未来の保障のために今に嘘をついて生きている。この差は大きい。バイクの後部座席で泣きながら、心の中で何かがストンと抜ける感じがした。

日本に帰ると、これまでの生活が、どこか白々しく感じられた。子どものころは「want to」ばかりを追いかけて好きに行動していたのに、気づけば自分の周りは「have to」のことで埋め尽くされていた。このままじゃまずい。

いったんそう考え出すと、焦りが止まらなくなった。事務所に休業を申し出て、すでに入っていた仕事はこなしたうえで、米国へ留学することにした。僕は27歳になっていた。

次回に続く

Text=山内宏泰 Phorograph=太田隆生


芸能界デビューのきっかけは8歳の時に送った1枚のハガキ



俳優から転身! なぜULTRA JAPANを手掛けたのか?


小橋賢児
小橋賢児
1979年東京生まれ。’88年に俳優としてデビュー、NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』など数多くの人気ドラマに出演。2007年に芸能活動を休止し、世界中を旅して回る。現在はULTRA JAPANや未来型花火エンタテインメントSTAR ISLANDをはじめ、話題のイベントをプロデュース。マルチクリエイターとして活躍する。
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