失敗はどんな畑の肥料となり、次の芽を育てるのか。ドリアン助川【ゲーテの名言㉑】

世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2009年9月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。  

人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする

――『ゲーテ格言集』より


ゲーテは生涯をかけた『ファウスト』に於いても、「人は努力する限りあやまつものである」と記している。道ならぬ恋やイタリアへの逃避行、成立しなかった幾多の研究など、事実、ゲーテ自身もその精力に比例して「やらかしてしまった」件数の多い人であった。しかしそれを発酵させたことにより、今も私たちが触れられる書物や言葉に相成った。

では、人はあやまちによってなにに気付くのだろうか。失敗はどんな畑の肥料となり、次の芽を育てるのか。

私たちはなにごとかを試みようとする時、これから歩を進めていく原野を遠目に臨むものだ。計画と呼ばれるものがこれ。やみくもに頑張るというやり方もあるが、地図なき旅と同じことで、どこかで立ち往生してしまう危険性がある。だから大人たちは考える。どう進めばいいのか。さあ、計画を練ろうと。だが、多くの計画は哀しいかな、固定された視線の延長線上にしかない。その時代の常識と、正しいはずだという思い込みから道のりは決定される。そして溜め息。計画を立てたはずなのに、地図を手にしたはずなのに、いったいどうして? これまた無謀な旅と同じように立ち往生してしまうのだ。

人はそこで初めて、自分たちのものの見方が一面的でしかなかったことを知る。角度を変えてその対象を見てみれば、まったく違う局面があったことに気付くのだ。予測し得ない事態が起き得ることも含めて。

だから、あやまちをあやまちとして認められる素直さがあるなら、人の視線はより複眼的になっていく。少なくとも上段から振り下ろすような単一の常識でものごとを判断したりはしなくなる。

となれば、実はもっとも大切な、意味のある分岐点は、あやまちからなにに気付くかということ以前にある。それは、あやまちを犯してしまったことそのものに気付いているかどうかなのだ。

ある程度の生活に慣れてしまえば、そのレベルを落としたくないと願うのが人情だ。個人の生活でも、社会全体でもこれは変わらない。すると、生活の維持が正義になり、そのためなら他の命を傷付けてもいいだろう、大地を汚してもいいだろうという論理がまかり通るようになる。豊かになったことで、視野は逆に狭められるのだ。あやまちに気付きさえすれば、人はいつだってやり直せるのに。

――雑誌『ゲーテ』2009年9月号より


Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。'15年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。