黒田博樹 高校で補欠だった男が、今やヤンキースの大エース!仕事は全然楽しくない!

昨年、プロ野球選手 黒田博樹はピンストライプのユニフォームに身を包んだ。かつて味わったことがない重圧を受けながら、キャリアハイ(自己最高)の成績を上げた。シーズン中の険しい表情とは一転、彼の大好きな広島で仕事哲学を聞いた。

「広島カープ黒田博樹、ファンから暴行を受ける」
 スポーツ紙1面に、そんな見出しが躍るかもしれなかった。いや、むしろ彼はそれを望んでいたのかもしれない。
 1999年の暑い夏の日である。読売ジャイアンツ戦に先発した黒田博樹は、相手打線につかまり2回途中6失点でノックアウト。絶望的な気持ちのまま、試合終了を迎えると、球場に乗りつけた車には乗らず、徒歩で家へと向かった。
 黒田は、自分の不甲斐なさを責めた。せっかく多くの子供たちが見に来てくれた夏休みだったのに。そんな日に、俺はなんて無様なピッチングをしてしまったんだ。誰か、俺を殴ってくれ──。
 歩いて30分ほどして、自宅に着いても気持ちは収まらない。
 そして、ついにはマンションの階下を覗きこんだ。
「俺はもう、死んだほうがいい」

 時を経ること13年。彼は再び、同じような思いにとらわれる。
 メジャーに移籍してから4年を過ごした西海岸の名門球団ロサンゼルス・ドジャースを飛び出し、東海岸、いや世界を代表する名門球団ニューヨーク・ヤンキースに入団した1年目の開幕直後のことだ。
 世界一といわれるだけあって、メディア、ファンの目は厳しかった。オープン戦から「HIROKIはア・リーグでは通用しない」(DH制があるア・リーグは、ナ・リーグより投手不利といわれている)とたたかれ、記者の質問も容赦がない。
「自分は、ア・リーグで通用すると思うのか?」
「ヤンキースタジアムは右翼側が狭い。ホームランを打たれやすくなるが、どう思うか(実際、ヤンキースタジアムは左打者天国と揶揄されている)」
 シーズンが始まると、なかなか思い通りのピッチングができず、バッシングの声は日増しに大きくなっていく。
 そんな日が続いたある時、黒田は、ニューヨークの自宅のベランダを見やった。広島時代の、あの日のように──。

重圧を解き放ってくれたジラルディ監督の言葉

「あの時は、本当にベランダに近づかないようにしていましたね」
 シーズンが終わった黒田は笑いながらもそう語った。
「ヤンキースというチームに来て、あれだけの契約をしてもらいましたから(1年1000万ドル)、どうしても全部勝たなきゃいけない、という感覚になっていました。マラソンでいえばスタートしたてのまだまだ先が長いなか、ピッチが上がっていかないというのは相当しんどかったです」
 そんな黒田に、救いの手をさ差し伸べてくれたのが、ヤンキースの指揮官ジョー・ジラルディだった。ジラルディは、黒田を監督室に呼び、こう声をかけた。
「先発投手なら、年間に約32、33試合の登板がある。だけど、俺たちはヒロキに32、33勝0敗を望んでいるわけじゃない。いくらいいピッチャーでも、負ける時はある。だから、1年間コンスタントに投げてくれればいい。それに、ヤンキースは今までのヒロキを見て獲得したんだ。ヤンキースに来たからといって、証明しなければいけないことなんて何もない。(ドジャースで)やってきたことをそのまま続けてくれればいいんだ」
 自身「肩の荷が下りた」と言うように、以降、黒田のピッチングはすごみを増していく。6月に4勝1敗、防御率1.98の快投を見せると、以降12勝5敗。
 結局、シーズンが終わるまでヤンキース投手陣で唯一ローテーションを守り続け、登板数33、16勝、投球回数219回2/3といずれもメジャーキャリアハイを更新。メディアが言及したヤンキースタジアムでは、11勝、防御率2.72と圧倒的な結果を残す。チームも2年連続の地区優勝を果たし、ジラルディに「ヒロキがいなければ、優勝はなかった」とまで言わしめた。

日本時代の決め球であり、現在も武器のひとつとなっているフォークを操る黒田だが、その手は、意外にも大きいほうではない。

 シーズン序盤、あれだけ辛辣に当たったニューヨークメディアも黒田を絶賛する。
「2012年のヤンキースのエースはHIROKI KURODAだ」
「SUPER HIRO」(HIROKIとHEROをかけて)
 黒田は昨シーズンをこう振り返る。
「自己ベストの成績が出せたので、そういう意味での達成感は大きかったです。ただ、やっぱり今まで以上にプレッシャーは感じていましたけどね」
 他人から見れば充実のシーズンだったはずだ。しかし、口から出た言葉は「プレッシャー」。
 なぜ黒田はここまで大きなものを背負いながら投げようとするのだろうか。彼はその答えを「仕事ですからね、野球は」と言い切る。少なくない給料をもらっている以上、それに対しての結果は求められて当然であり、それに応えないといけないというプレッシャーは常に持っている、と。
「はっきり言って、野球が好きなのか、自分自身でもわからないんですよね」
 それはつまり、野球という仕事が楽しくない?
「それ、僕にとって究極の命題なんですよね(笑)。もしかしたらいつまでも野球を好きになれないのかもしれない。いや、好きだから続けているのかもしれない。子供のころからやっているので、宿命のように感じている部分もありますし、でも一方で何度か野球を辞めるタイミングがあったのに辞めなかったということは、好きなのかもしれない……。楽しい時期はあったんですよ。小学校から中学校までは親父が監督をするチームでプレーしていたんですけど、とにかくグラウンドに行くのが楽しみで仕方なかった。ただ、それ以降は地獄でしたけどね。だからこそ、今もあまり楽しんだらいけないと思っているのかもしれないですね。苦しまないといい仕事ができない、というか……」
 そう、この高校以降の地獄こそ、黒田博樹という投手の原点であり、彼が常に大きな責任を背負いながらマウンドに立つ理由なのである。

誰よりも厳しかったのは、実の母だった

 黒田博樹は、大阪府で生まれた。父は、元プロ野球選手、母は砲丸投げの選手というアスリート一家。幼いころから野球に親しみ、「楽しかった」中学校までの野球を経て、元木大介、種田仁らが入れ替わりで卒業した関西きっての名門・上宮高校へ進学、野球部の門をたたく。
「甲子園に行きたい」
 名門校に入った際の高揚感と淡い期待はしかし、脆くも崩れ去る。入部した選手との実力差は歴然。練習は苛烈を極めた。
 特に厳しかった夏の練習の記憶はいまでも黒田の脳裏から離れない。打たれれば、草むしりと走り込みの日々。あるときは、課題であるコントロールが改善されず、監督がいいと言うまで走り込みを命じられた。黒田の記憶では4日間。ボールを使った練習は一切できず、ただ黙々と外野を走り続ける。
 体力的にも限界を感じ始めていたとき、チームメイトの母親がこっそり連れ帰り、食事を与え、風呂に入れてくれたこともあった。けれど、この話すらハッピーエンドでは終わらない。きっかけは、その母親が、黒田家も不安だろうとかけてくれた一本の電話だった。
「博樹くん、うちで預かって、食事と風呂を取らせて、監督に気づかれないように朝までに合宿所に帰しますから」
 すると母親はこう返した。
「ありがとうございます。でも結構です、タクシーでかまいませんので、すぐにでも合宿所に帰して走らせてください」
 黒田は今でもあの時の驚きと、気まずそうな友人の母親の顔が忘れられないという。
「あの時は、なんて母親だ、と思いました。とにかく強烈な母親でしたね。祖母の葬式があった時も、当然高校を休むわけですが、終わったらすぐに『お前はすぐに学校へ帰って走ってこい』ですからね(笑)」
 家とグラウンドでのスパルタな日々。それでもまだ、本業の野球で結果が出ていれば「地獄」の記憶としてとどまることはなかったかもしれない。しかし、現実は「生き地獄」だった。
 黒田博樹は補欠だったのだ。

本当に野球が好きなのかそれが究極の命題/MLB時代の背番号は一貫して18。ヤンキース1年目となった昨季はアンドリュー・ジョーンズ(今季より楽天)から譲り受けた。

 「公式戦で投げた記憶はないです。でも、それは監督に嫌われているとかそういうことではなく、単純に実力がレギュラーには程遠かった、ということです」
 当時の黒田は3番手投手。公式戦で投げた記憶はないのに、練習や練習試合では何千球と投げた。エースが投げすぎで消耗しないためだった。
「いまでこそ、上宮での経験と母親の厳しさがありがたいと思えますけど、当時は本当に地獄でしたね……」
 転機は大学だった。「関西の大学に進学し、楽しい野球をしよう」と思っていた黒田は「レベルの高い関東の野球にもう一度挑戦してみて、だめだったら辞めればいいじゃないか」という父親の勧めもあり、専修大学へ進学、野球を続けることになる。当時、東都リーグ2部だった専修大学には、のちに広島東洋カープのチームメイトとなる小林幹英がひとつ上の先輩として、絶対的な実力を誇っていた。
「ものすごい球を投げている幹英さんを見て、目標というかライバルのような存在ができたことが大きかったですね。それまではあまりに日々がきつくてそんなことを考える余裕すらなかったですから」

ヤンキース入団一年目。大きな重圧とともにキャンプ地・タンパへ。息抜きとなったのが、間借りした家の前に広がるフロリダの海での釣りだった。

 思わぬ発見もあった。
「高校の時よりも野球を身近に感じられた」と言うとおり、「あの上宮で3年間やったんだ」というプライドと、自身のかなわなかった甲子園に出場したチームメイトたちに負けたくない、という反骨心が沸々と湧いてきたのだ。
 以降、少しずつではあるが、黒田はその実力を伸ばしていった。小林幹英卒業後は、エースとしてマウンドに立ち、1部昇格を果たした神宮球場での試合でスピードガンが導入されて初めての150キロを出すこともできた。そして、プロ入り。広島東洋カープからのドラフト2位指名だった。
「今思えば、上宮は相当レベルが高かったんでしょうね。高校生活が3年間で本当によかった(笑)。でも、しんどいことでも、それを乗り越えられればその先に何かあるということがわかったし、だからこそ、きつかった経験をネガティブに捉えるのはもう止めようと思えるようになりました」

苦しみ抜いた男、最高の人生訓! 補欠として過ごした高校時代から、ニューヨーク・ヤンキースにたどりつくまで。劇的な成長を遂げた半生を振り返りつつ、そのなかで見出した、目標達成の方法や勝利をたぐり寄せるための思考法を紹介する。(KKベストセラーズ・1,470円)

 カープ入団後、黒田は球界を代表するエースにまで成長。広島ではそのピッチングスタイルから、多くのファンを魅了した。2007年オフには活躍の場をメジャーへと移す。そして2011年、ヤンキースに移籍。日本人選手でメジャーでの実績が評価されてヤンキースに入団したのは黒田が初めてだった。
 ただ、この間においても黒田は常に苦しんでいた。「マウンドは戦場」「この試合で野球人生が終わってもいい」という覚悟で試合に臨み、勝利を自分の右腕に託してきた。不安で眠れない夜は幾度となくあった。不安だから練習をした。そして、振り返ってみるといつしか自分の後ろには結果がついてきていた。結果が出ているのだから、必然それは彼のスタイルとなる。いつのまにか自身の座右の銘を「苦しまずして栄光なし」と言うようになった。
 苦しんだ先に得たものは、黒田にとって計り知れないほど大きかった。日本時代、初めてFA権を獲得した際、なんとかチームに残ってくれと、広島市民球場に集まってくれたカープファンや、ドジャース時代に出会った一昨年のサイ・ヤング賞投手であるクレイトン・カーショー投手は、黒田にとって大切な存在だ。カーショーは、黒田とドジャースの契約が切れた2010年オフに、ミーティングで「ヒロキ、ドジャースに来年も残ってくれ」と言い、黒田の涙を誘った。実は、カーショーは2012年オフにも黒田にメールをしている。

「ドジャースに戻ってきてくれ」
 ヤンキースでは、数々の名選手とプレーし、勝利を求めた。そして、黒田が嬉しかったと振り返る出来事がある。
「(チームの中心選手である)ジーターが、ポサダ(ヤンキースのOB)とかに、うちの投手陣で一番好きなピッチャーのヒロキだよ、っていつも紹介してくれたんです。お世辞かもしれないですけど、すごく嬉しかったし、また一緒にプレーしたいと思いましたね」
 2013年、黒田は新たにヤンキースと1年契約を結んだ。2カ月後にはまた新たな苦しみが始まる。
 インタビュー終了後、黒田は「仕事が楽しければ人生も愉しい」と表紙に書いてある本誌を手に取って言った。
「僕の時だけ、ここちょっと変えておいてください。仕事、楽しくないんです(笑)」


Hiroki Kuroda
1975年生まれ。大阪府出身。NYヤンキースに所属する投手。97年にドラフト1位で広島カープに入団。2006年には最優秀防御率を獲得するなどエースとして活躍。08年にMLBのLAドジャースへ移籍し4年で41勝。昨季よりヤンキースに。

Text=黒田 俊 Photograph=藤本憲一郎、江森康之

*本記事の内容は13年2月1日取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい