信長見聞録 天下人の実像 ~第十九章 佐久間信盛〜

織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

信長のコトバ:「比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事」

佐久間右衛門信盛の評判は悪い。信長の折檻状(せっかんじょう)のせいだ。

天正八年八月、信長は自らの手で一通の書状を書き上げ信盛に送り、息子の信栄とともに高野山に追放する。これが有名な信長の折檻状で、信盛を譴責(けんせき)する言葉が書き連ねられている。

信長の自筆文書はほぼ残っていない。当時も珍しかったらしく、『信長公記』も信長の自筆だったことを強調している。怒りにまかせ自書したのだろう。信長に無能の烙印を押された信盛の歴史的評価は、すこぶる低い。けれど、この折檻状は別の読み方もできる。

信盛は信長の最も古い家来のひとりであり、筆頭家老の地位にあった。肩を並べられるのは柴田勝家くらいだが、その勝家も元は信長の弟・信行(信勝)の家老で、兄弟の戦になった時は信長の敵として槍を向けている。信盛は当時から信長の腹心であり続けた。

若い信長は町中で立ったまま瓜を喰らい、人の肩にぶら下がって歩いたというが、そのぶら下がった相手は信盛だったかもしれない。信盛は信長が「うつけ」と呼ばれた頃からの仲間なのだ。父・信秀という後ろ盾を失い、兄弟と敵対し、家臣からも見放された弱小の信長を、信盛は一度も裏切ることなく味方し続けた。おそらくふたりは馬が合ったのだ。

信盛には「退き佐久間」という渾名があった。兵を退く名手の意だ。戦では攻撃より退却が難しい。退き方を誤れば、追撃を受け味方の兵を大きく失いかねない。信盛は戦況や地形を見極め、味方の損害を出さずに兵を撤収するのが上手かった。

この種の仕事は賞賛を受けにくい。華々しい武功を上げる可能性は低く、上手くやって当然で失敗すれば批難される。損な役回りを上手にこなす信盛は戦の先頭で槍を振るうことを好む信長には、得難い部下だったはずだ。実際信盛は信長の主要な戦の大半に参戦し、地味だが重要な役割を果たしている。そんな信盛に、ほとんど身ぐるみ剥がされて追放されるようないかなる落ち度があったのか。

信長はこう書いている。

「信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事」※

目覚ましい手柄をたてたことが一度もないというのだが、これは信盛には酷だろう。特に直前まで信盛が総大将として取り組んだ大坂攻めを、信長は怠慢と責める。石山本願寺を囲んだ4年間、信盛と信栄が頻繁に茶会を開いたのは事実で、その話は信長の耳に入ったのだろう。

信盛にも言い分はあったはずだ。石山本願寺を包囲すると決めたのは信長だ。蟻の這い出る隙間なく囲めば、大坂城は熟柿も同然と信盛は読み、その読み通り本願寺は和睦して退去した。無理攻めで兵を消耗するくらいなら、茶会を催していたほうがよほど生産的だ。しかも茶の湯に熱心だったのは、信長の影響だ。天正三年に家督を譲った時、信長は当時の居城である岐阜城も数々の宝物も嫡男信忠に譲り渡し、茶道具だけを持って信盛の屋敷に移っている。信盛は信長のおそらく数少ない友人のひとりで、茶の湯は彼らの共通の趣味だったのだ。

信盛は信長に馴れ過ぎて、時勢を読み違えた。これからが信長一生の事業の正念場であり難所だというのに、事は成ったと気を緩めた。信長にはそれが許せなかったのだろう。

とは言え、友人の有り難さは失ってわかる。翌年信盛が熊野の奥で亡くなると信長はすぐに信栄を赦免(しゃめん)し、旧領を安堵したと『信長公記』は記している。

※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)314ページより引用

Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。