【小橋賢児の半生・最終回】10年後、20年後に自分が何をしているかは想像がつかない

「ULTRA JAPAN」(主催:Avex)。3日間で12万人の来場者を熱狂させたダンスミュージックフェスを、5年前からクリエイティブディレクター(現在はクリエイティブアドバイザー)として関わってきたのが小橋賢児だ。その名に聞き覚えのある人はかなりいるだろうが、彼のどの顔を知っているかは人によりバラバラではないか。 俳優、映画監督、イベントプロデュース……。時期によって注目される側面が次々と変わっていく、まさにマルチな活動ぶりだ。いまや特定の領域に閉じこもってばかりいては、先が拓けない時代。 ジャンルを軽やかに跳び越えていく者だけが、真に革新的なことを為し得る。それを見事に体現する小橋賢児が自身の半生を語る。


決まりきった肩書きが欲しいとは思わない

ULTRA JAPANを立ち上げた経緯は先にも述べたけれど、その前後にはドキュメンタリー映画の監督・制作だったり、花火をイベントとして刷新するSTAR ISLANDの立ち上げ・運営も手がけている。このところは公園の再開発なども行っている。

一見、ジャンルが離れているようにみえるかもしれないが、クリエイティブを通じて気づきのきっかけの新しい場づくりをしたい! という共通意識でやっている。

映画『DON’T STOP!』はこんなふうに出来上がったものだった。あちこち旅をするようになって、帰国すると「こんなことがあってさ」と、人にその様子を話すわけだけど、どうも口頭だと、誰しもそんなに熱心に聞いてくれないことに気づいた(笑)。

じゃあ映像だったらいいんじゃないか。できるだけ動画を撮っておいて、相手に悪いからと早送りで見せるんだけど、それでもたいていは眠そうな顔をされる。人に見てもらうには、ちゃんと編集しないとダメだなと、独学で映像編集を学んだ。

映像を手際よく3分から5分にまとめて、音楽つけて見せるようにしたら、一転みんな喜んでくれるようになった。これが映像制作のおもしろさにハマっていくきっかけだった。

30歳の誕生日を無事(?)に迎えてしばらくしたころ、知人からハワイ行きを誘われた。ただリゾートへ遊びにいくわけじゃない、ちゃんと目的があって、作家の高橋歩さんのトークショーを聴きにいくのだという。旅人で作家の高橋歩さんは、その界隈ではすでに名を知られていたけれど、僕は彼が何者かわかっていなかった。

でも、なんだかおもしろそうだという勘が働いた。お金はなかったけれどマイレージが残っていてハワイへ向かうことができた。トークはすごくおもしろく感じられた。イベントが終わったあとに挨拶をすると、カッコつけた感じだろうかという想像とは違って、ラフで気楽な感じな人だった。好感が持てた。

打ち上げに参加して話していたら、高橋さんは北海道で出会ったひとりの男のことを語り出した。かつて走り屋のボス的存在だったその人物は今、右手しか自由が利かなくなってしまい車椅子生活をしている。それでもレイバンのサングラスにマルボロをくわえて、いつか米国に行ってルート66でハーレー・ダヴィッドソンに乗りたいのだという。

そこで高橋さんは、じゃあ俺といっしょに米国へ行って夢を叶えようぜとけしかけ、実際に渡航の計画を立てているところだと教えてくれた。その話を聞いて、僕は思わず「それ、映画に撮らせてください!」と口走った。映画なんて撮ったことなかったけど、なんだか気持ちが熱くなったのだ。

自分に映画をつくる能力があるかどうかなんてわからないし、つくり方だって知らない。でも、話を聞いて鳥肌が立って、ワクワクしたのはまちがいない。この気持ちを信じてやってやろうと決意した。

帰国するとすぐ知り合いに機材を借りて、駆けずり回って資金を集め、ひたすらドキュメンタリー映画を見まくって本も読んで、ドキュメンタリーの撮り方を学んだ。被写体がカメラを意識しなくなるまでともに時間を過ごすことが大切だと思い、出発の一ヵ月前から北海道の彼の家で時間を過ごした。

計画を立てたときは映画「イージーライダー」のような男同士の旅を想像していたのだけど、旅の全貌が見えてきたらどうも様子が違う。70代になる彼の母親とその友人も来るし、彼の娘もついていくことにしたという。イメージしていたカッコよさとはかなり異なる。いざ米国に着いて旅を始めれば、クルマやバイクは壊れるしとトラブル続き。それでも10日間4200キロを2台のモーターホームと2台のハーレーで乗り切った。

帰国後、必死に編集を重ねて、もうすぐ完成というときに、東日本大震災が起きた。僕は仲間と民間ボランティア第一号で石巻に入って、雪の中にテントを張ってキャンプしながら復興支援をした。それを終えてからラストスパートをして、映画は無事に完成した。

映画が終わって、また企業のイベントなんかも手がけるようになっていたころ、ULTRA のアジアの立ち上げの話が持ち上がってのめり込んでいった。僕は何かのジャンルに執着はしていない。クリエイティブな営みを通して気づきがもたらされる場づくり・きっかけづくりをしたいから、それが実現できるのであれば古着を売るのでも、演じることでも、映画やイベントづくりでも何だってする。決まりきった肩書きが欲しいと思ったことなんてない。

2017年からは、花火を未来型へと進化させた「STAR ISLAND」もスタートさせた。これはお台場の絶景ロケーションを舞台にして、日本が誇る伝統芸能たる花火と、3Dサウンド、ライティング、ショーパフォーマンスを融合させたエンターテインメント。

もともとULTRA JAPANのフィナーレで花火を打ち上げていて、その瞬間にお客さんがひとつになれることを実感し、一流の花火師とのかかわりもできて、日本の伝統ある花火には、エンターテインメントとしてまだまだ大きな可能性があると感じた。

でも、このところ大きな花火大会がどんどん休止に追い込まれている。花火は基本的に無料で見られるものと僕らは思ってきたけれど、その形態には限界がきていて、存続すら危ぶまれるようになっている。

これはなんとかしなければいけないと、唯一無二のエンターテインメントとして花火を再生することに決めた。花火は日本が誇るべき伝統のものだけど、伝統ってただ昔ながらのかたちをそのまま続けていれば守れるわけじゃない。大きな花火をみんなに見せるということを始めた人は、当時からすれば相当にパンクだったはず。ものすごい熱量で、あり得ないことを現実にしていったに決まっている。

だからこそ、それを見た当時の人は毛穴が開くような極大の驚きを感じたのだろう。でも、時代は回る。いま同じことを繰り返したってインパクトはないし、「これが伝統なんだ」と説かれても若い人は興味を持たない。本気で伝統を守りたいと思うなら、つねに時代に則したかたちへのアップデートを怠っちゃいけない。

そこでSTAR ISLANDでは、最先端のテクノロジーとクリエイションを併せたショーとして花火をグレードアップし、有料で楽しむスペースを用意することにした。お金が動くしくみをつくれば、それによってよりすばらしい花火を上げられるし、お台場一帯でたくさんの人が自由に花火を目にすることもできる。多くの子どもたちが、花火といえばSTAR ISLANDだよねって覚えてくれる存在になれたらと思って邁進している。

2年続けて大きな成功を収めたSTAR ISLANDはいま、海外からの開催オファーがいくつも舞い込んでいる。こうして日本のエンターテインメントがグローバルな存在になっていけば本望だ。

僕はいつだってその瞬間ごと、目の前にあるものに夢中になり熱狂しながら、一歩ずつ進んできた。あゆみを止めなければ、そのうちにワクワクするような未来が見えてくるから、またそこへ向けて着実に歩いていく。そんなことの繰り返しをしてきたし、これからもそうしていくつもりだ。

5年前、大型フェスのディレクターをやっていることも、会社の代表をやっていることもまったく想像していなかった。だからこそ10年後、20年後に自分が何をしているかは、本当に想像がつかない。でも、いつのときもその瞬間瞬間に湧き出る感情や出会いを大切に、自分でも想像できない、まだ見ぬ未来と出会えることを楽しみに生きたいと思う。

おわり


小橋賢児の半生

①俳優から転身! なぜULTRA JAPANを手掛けたのか?

②芸能界デビューのきっかけは8歳の時に送った1枚のハガキ

③1990年代の芸能界は独特の華やかな魅力があった

④僕が27歳で芸能界から退いた理由

⑤世界中を旅して回るが、帰国後はひきこもりに


小橋賢児
小橋賢児
1979年東京生まれ。’88年に俳優としてデビュー、NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』など数多くの人気ドラマに出演。2007年に芸能活動を休止し、世界中を旅して回る。現在はULTRA JAPANや未来型花火エンタテインメントSTAR ISLANDをはじめ、話題のイベントをプロデュース。マルチクリエイターとして活躍する。
気になる方はこちらをチェック