"新1万円札の顔"渋沢栄一はいかにしてお金のプロになったのか?<③腕を試した静岡藩時代>

1万円札の表面を飾る肖像が、福沢諭吉から渋沢栄一へ。 先般駆け巡ったニュースで一躍、渋沢栄一への注目が高まっている。渋沢研究の第一人者たる島田昌和さんは「福沢諭吉から渋沢栄一への肖像転換は、『民の創出』から『多様な民の共存』への変化を象徴していると言えます。これからの時代に求められる思想が、渋沢栄一の生き方からは大いに読み取れます」と説く。21世紀型経済人のあるべき姿を探るために、壮年期のビジネスパーソン・渋沢栄一の言動をつぶさに教えていただこう。『若き日の渋沢栄一』連載第3回は、すべてを失った人々の再出発:静岡藩時代。


1868年(明治元年)28歳。明治維新によりフランスより帰国。徳川慶喜に面会し、静岡藩へ。

フランスから帰国した渋沢栄一は、しばし静岡藩に身を置くことに。「商法会所」と呼ばれる政府の地方機関運営に従事することとなった。これは当時日本にまだ定着していなかった、半官半民の会社のような組織。静岡は渋沢にとって、欧州で身につけたビジネスマインドを日本に定着させる格好の実験場となったのだった。

明治元年、フランスから帰国後すぐに静岡へ行った渋沢栄一。

将軍職受諾で失望し、さらに鳥羽伏見の戦いで江戸に逃げ帰ったことでさらに失望した徳川慶喜に対して、渋沢が見捨てずに寄り添っていったのはどうしてなのでしょうか。静岡藩に集った人々、それまでの幕臣としての「権威」のもとで、基本それだけで生計や身分が保証された人たちでした。そもそも武士という身分がなくなり、自ら生計を立てなければならないわけです。これも深読みかも知れませんが、幕府という権威の後ろ盾がなくなり、最も苦しいところで転進していかなければいけない人たちを経済の実体の中で生きていく人に変える試金石にすべきと考えたのではないでしょうか。

渋沢が選択したのは新政府が日本各地に設置した「商法会所」の経営でした。商法会所とは不換紙幣で信用の薄かった太政官札という新政府紙幣を流通させ、各地に新しい産業を興すことを目的とした資金面でも組織面でも県レベルの金融・流通を担う会社組織の先駆けのような事業体。この商法会所は政府の肝いりによる半官半民の会社のようなもので、全国に作られたのですが寄り合い所帯でビジネスのわからない旧武士層と地元の商人が運営してほぼすべて失敗しました。

ところが、渋沢は三井の大番頭・三野村利左衛門の協力を得て太政官札を銀貨に替え、さらに旧幕臣や庶民が必要とした様々な物品を仕入れていきました。不換紙幣のもとで急速にインフレの進む中、紙幣で持っていることが不利と理解し、どしどし消費財を買い付けていったのでした。結果的に早い段階で買ったものが高い値で売りさばけることになった。

自分が血洗島で取り組んだ染料の商い、一橋家での商品作物栽培の奨励、ヨーロッパで見聞した近代ビジネスの実態、それらの経験を踏まえて静岡の地で近代ビジネスのプロトタイプの実験を成功させることができたのです。さらに、勧業に応じる旧幕臣に対して製茶や養蚕をはじめとする起業資金の貸し付けもおこない成果を上げていったのです。

この経験によって、いったん自分の人生がご破算になったかと思われたところから、日本という国を近代化するために自分の腕は十分役に立つことを実感でき、再出発するステージを刻むことができたのではないでしょうか。

④「かけがえのない巨大プロジェクト経験:新政府時代」に続く


Masakazu Shimada
1961年東京都生まれ。学校法人文京学園理事長。文京学院大学経営学部教授。経営学博士。'83年早稲田大学社会科学部卒業。'93年明治大学大学院経営学研究科博士課程単位取得満期退学。一橋大学大学院商学研究科日本企業研究センターフェロー(2009年4月~'15年3月)。経営史学会常任理事 ('15年1月~'16年12月)。渋沢研究会代表('10年4月〜)。渋沢栄一の企業者活動の史的研究などが専門。'15年、学校法人文京学園理事長に就任。文京学院大学では経営学部教授として、「経営者論」を担当。著書に、『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』(岩波新書)、『原典でよむ渋沢栄一のメッセージ』(岩波書店)、『渋沢栄一の企業者活動の研究−戦前期企業システムの創出と出資者経営者の役割』(日本経済評論社)ほか多数。


Composition=山内宏泰 Photograph=渋沢史料館協力