【連載】男の業の物語 第四回『片思い』


ボードレールの詩の一つに大都会での行きずりの恋についての、いかにも切ない印象的な詩がある。

都会の雑踏の中で視線が出合い、互いにこの相手こそが誰よりも自分に相応しいと直感し合う。その直感が互いに正しいということを相手もまた感じ取っているのを心の閃きは肯定している。そしてその見知らぬ相手もまた同じように。しかし互いにそう感じ合っているのを強く感じ合いながら二人は擦れ違い、永久に再会などありはしない。

という切ない恋の直感を見事に表した詩だが、これは都会の雑踏ならではのあり得ぬ心のドラマだ。しかしそれが結実することが絶対にない訳ではない。

私の盟友だった江藤隆美という竹を割ったような気性の代議士はまだ県会議員だった頃、所用で上京した時に擦れ違った女性に一目惚れして彼女の後を付けて先回りして次の町角で彼女をとらえていきなり名乗り、「私はあなたを一目見てあなたに決めたんだ。なんとかこの私と結婚してくれ」と懇願し、相手の女性もその気迫に呑まれ、彼の凛々しい男らしさに胸を打たれ、ついに結婚してしまった。これなんぞ嘘のような本当の話だ。

男は誰しも見知らぬ相手の女にそうした直感を抱くことはあるに違いない。とは言っても江藤のように猪突して打ち明けられるものでもありはしない。しかし一目見てその強い印象が後々まで尾を引いて残ることなんぞは多々ありもする。
 
私にも一度そんな経験があったが、それは思いもせぬ無惨な結末で終わったものだった。

まだ二十代の半ばの頃、ある出版社主催の講演旅行で山陰に出かけ、鳥取市での講演を終え市長と教育長の接待で市の郊外の温泉旅館での宴会に招待された。同伴の講師は親しかった高見順氏と評論家の竹山道雄氏だったが、宿は海の間近で海の好きな私は見知らぬ土地の海を一目眺めたいと思い出かけたが、もう夕方に近く辺りに慣れぬ私を気遣って宿の若い女将さんが付き添ってくれたものだった。その彼女は浜辺の溝を越す時、足元の定かならぬ私の手まで取って案内してくれた。

そうやって間近で見直すと息を呑むほどのまさに絶世の美人だった。と言ってそれ以上何をすることも出来ずに暫くして宿に戻ったが、その間も彼女が当時売り出し中の評判の私に好意を抱いているのは自惚れではなしに強く感じられた。

思いがけぬ美人を直に目にして、しかも人気のない浜辺で一瞬だが手まで取られて過ごした相手の強い印象の余韻を抱えてなんとなく仏頂面をしている私に高見氏が気付いて訳を質したので、私も気の合った文士同士の仲ゆえに先刻のことを話したら高見氏が笑っておおいに頷き、

「いやあ、その気持ちは良くわかるなあ。それが旅の味わいというものだぜ。せいぜい悶えたらいいぜ」

半ば本気でちゃかしてくれた。

宴会が始まり、気さくで洒落た気配の市長に私が思わず、

「いやあ、この宿の若女将が綺麗なのには驚きました。あんな美人はどこにも滅多にいませんが、この町にはあんな美人が多いんですかねえ」

慨嘆してみせたら市長が身を乗り出し、

「そうでしょう。あれはこの町随一の美人ですが、最近子供を産んだらますます磨きがかかりましてな。実はこの宿の跡取りというのがこれまた町一番の男前の遊び人でしたが、あれをもらってさすがに遊びが治まりましてな。仕事も真面目にするようになって親たちもようやく安心しておりますよ」

と。言われてそれは当然と頷いたものだったが。

それから数年してどこかのゴルフ場で付いてくれたキャディに出身地を質したら、何とあの鳥取県の温泉町だった。そこで私としては件のあの絶世の美女を思い出し、町でも評判だったというあの宿の若女将を知っているかと尋ねたら、キャディが、

「良く知っていますよ。でもあの人今どこにいるかご存知ですか」

と聞き返してきたものだった。

「え、まさか離婚したわけじゃないだろうが」

「違いますよ。あの人今、刑務所にいるんですよ」

「えっ、一体何故だ」

「あの人ね、旦那さんが夜寝ている時に紐で首を締めて殺してしまったんですよ。それで今はね」

言われて思い当たった。

あの時、市長が言っていたとんだ放蕩者だった亭主も、結婚して天下一の美人を我が物にしてしまえば贅沢にもそれに飽きて昔の放蕩を始めたに相違ない。そして絶世の美人のあの女将は、美人としての沽券でそんな亭主を許す訳にはいかなかったのだろう。そう思っていかにもと納得したのもこちらの片思いの沽券ということか。

第五回に続く
第三回はこちら

男の業の物語 第三回『男の執念』


男の業の物語 第二回『死ぬ思い』

男の業の物語 第一回 『友よさらば』


石原慎太郎
石原慎太郎
Shintaro Ishihara 1932年神戸市生まれ。一橋大学卒業。55年、大学在学中に執筆した「太陽の季節」により第一回文學界新人賞を、翌年芥川賞を受賞。ミリオンセラーとなった『弟』や2016年の年間ベストセラー総合第一位に輝いた『天才』、『法華経を生きる』『老いてこそ人生』『子供あっての親-息子と私たち-』など著書多数。
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