"新1万円札の顔"渋沢栄一が日本のファッション業界にもたらしたものとは?

1万円札の表面を飾る肖像が、福沢諭吉から渋沢栄一へ。 先般駆け巡ったニュースで一躍、渋沢栄一への注目が高まっている。その渋沢が紳士のシンボルとして帽子の価値を知り、いち早く帽子文化を日本に取り入れた人物であることは、意外と知られていない。ゲーテではこれまで5日連続で、21世紀型経済人のあるべき姿を探るために、壮年期のビジネスパーソン・渋沢栄一の言動を振り返ってきたが、今回はその特別版として渋沢の洒落た一面に迫る。


紳士のシンボルとして常に帽子をかぶり続けていた渋沢

1867年(慶応3年)。27歳の渋沢栄一は"時の将軍"徳川慶喜の弟・徳川昭武に従ってフランスへ出立した。若き日に巡ってきたヨーロッパ行きは、のちの財界の重鎮に与えた影響は計り知れないものがあったが、フランスでの経験は渋沢の"紳士道"にも大きな変革をもたらした。明治維新により、1年後には日本に帰国したものの、元武士の渋沢にはヨーロッパの要人がいかに洒脱で、垢ぬけているかをこの目で見たのである。

日本の帽子の歴史は、Tokio hat(トーキョーハット)から始まった 

文明開化によって、日本にも洋装化が始まり、なかでも帽子は紳士の象徴として世の男性の頭部を飾る重要なアイテムとなった。紳士のシンボルとして常に帽子をかぶり続けていた渋沢の肝いりによって、1889年(明治22年)に日本初の製帽工場(日本製帽会社)が東京府小石川村氷川下(現在の文京区氷川下)に誕生。1892年(明治25年)に渋沢は、日本製帽会社を解散。益田克徳や馬越恭平らととともに、「東京帽子株式会社」を設立。

東京帽子会社柳島分工場

この会社が、何度も日本人技師を欧米に派遣し、当時としては外国品と同等以上の帽子を「TOKIO HAT(トーキョーハット )」の名で販売。これこそが日本の帽子文化の礎となり、発展の要となって一気に帽子文化が開花したのである。

「TOKIO HAT」は、独自で『帽子読本』を発行するなど、まさにファッションとしての帽子を日本列島に広め、1964年の東京オリンピックの公式ユニフォームハットを製造するなど日本を代表する帽子ブランドとなる。その文化と伝統は、現在も脈々と受け継がれ、経済だけでなく、ファッションでも渋沢は日本に大貢献を果たしているのである。

渋沢の思いから130年後の2019年。「TOKIO HAT」は、現代の日本人に合うかぶり心地のよい帽子作りを今一度見直し、『型(フォルム)』と『形(スタイル)』にこだわった新ライン「プレミアムライン」を2019年秋冬シーズンより販売を開始する。

今もなお渋沢の紳士としての思いが、現在の「TOKIO HAT」へと繋がっているのだ。


公式ホームページ:TOKIOHAT.COM

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オーロラ株式会社 お客様相談室 03-3230-0810

Text=ゲーテWEB編集部 Photograph=渋沢史料館、TOKIO HAT協力