信長見聞録 天下人の実像 ~第十七章 織田信忠〜

織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。  

信長のコトバ:「今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふる所」

信長は数え42歳の年に、息子信忠に家督を譲っている。天正三年(1575年)のことだ。何事においても徹底する信長は、家督だけでなく尾張も美濃も、岐阜城さえも譲り、茶道具だけをたずさえ筆頭家老佐久間信盛の私邸に移った、と『信長公記』には記されている。

我々の感覚からすれば早すぎる気もするが、当時はそれが普通だった。戦場を馳駆するのが彼らの仕事なわけで、走れなくなったら引退なのだ。だから戦国武将の隠居の年齢は、だいたい現代アスリートの現役引退の年齢と一致している。

ちなみにこの時、信忠は19歳だった。偶然かそれとも意図的なのかはわからないけれど、信長が父・信秀から家督を継いだのと同じ年齢だった。信盛屋敷に移った信長は、翌年安土築城を開始する。破壊の次は創造だ。第二の人生は、天下人としての人生だった。

もっとも、引退で信長の本質が変わったわけではない。敵対する勢力はまだ国内から一掃されてはいなかった。しばらく戦が続くのは間違いないし、家督を譲ったばかりの信忠にその戦のすべてを任せることなどできる相談ではなかった。

翌天正四年五月三日、信長に敵対する大坂本願寺の大軍が織田方の佐久間信栄や明智光秀の立て籠もる天王寺の砦を包囲する。翌日その報せを京都で聞いた信長は、即座に配下の諸将に出陣の命令を下す。そして自らも大坂へ向かう(信忠は安土にいて対応できなかった)。この時、信長は湯帷子(ゆかたびら)姿で、百騎の供を従えただけだったという。

湯帷子は今日の浴衣、大うつけと呼ばれた頃の若き信長が好んで身につけた衣装だ。斎藤道三との会見場への道中、背中に巨大な男根を描いた湯帷子を着ていたという話は前に書いたけれど、そんな格好で、しかもわずか百騎を率いて、取るものも取りあえず信長は戦場に向かった。それほど事は急を要した。

身軽な信長は五日に着陣したが、出陣の触れがあまりにも急だったため、雑兵や人足がなかなか集まらなかった。軍勢が揃うのを待っていたら、天王寺の味方は攻め殺されてしまう。天王寺の砦は俄にわか作りで、城壁も堀も貧弱なため、古畳や殺した牛馬を盾にして敵の矢弾(やだま)を防ぐという有様だったらしい。

そこで信長は決断する。かろうじて集めた三千人ばかりの軍勢を率いて、天王寺を囲む一万五千の敵を攻めたのだ。

こういう時の行動で、信長がどういう人間かわかる。彼は最前線に立ち、足軽に交じってあちらこちらと駆け回り、指揮し続けたのだ。敵は何千挺もの鉄砲で防戦、信長は足に被弾し傷を負いながらも砦に突入し、味方との合流に成功する。

それでも敵の大軍は退こうとしない。武将たちはこれ以上の合戦は控えるべきだと主張するが、信長は取り合わない。「今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふる所(今回こんなに敵の近くまで詰め寄れたのは、天の与えた好機だ)」※

そう言って、合流した砦内の兵と出撃、数に勝る敵をさんざんに追い崩し、二千七百の首級を挙げたという。

若い頃の信長は、自らの命を危険に晒しながら戦の最前線に立ち続けた。そうしなければ勝てなかったからだけれど、何万の大軍を率いる天下人となってからも、必要とあらばそういうことをした。足軽とともに最前線で戦うことを恐れなかった。

あるいは信長は、そういう自らの姿を敢えて信忠に見せたのかもしれない。私心のないことがリーダーシップの本質であることを、信長は身を以て信忠に伝えたのだろう。

 ※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)200ページより引用

Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。