【連載】男の業の物語 第十三回『無類な旅』


人生の中での宝物は恋愛とかいろいろあろうが、その一つは良き友とした旅の思い出だろう。それも恋人なんぞとよりも気の合った男同士の方が心に染みて良き思い出になりやすい。

私は幸いそうした旅を何度かすることが出来たが、今でも思い出し心地良い懐旧に浸ることが出来る。

その初めの一つは、学生の頃の春休みに寮で一緒だった親友二人と寮の仲間の実家を渡り歩いての無銭旅行で、倹約の立て前からまず関西までの列車は各駅停車の鈍行で、その後の旅程も全てそれで通した。

初めて訪れた広島はまだ復興が適わず荒れ果てた無残な姿で、夜は泊まる当ての寮友の家もなく、安宿を探したがどれも売春婦が客をつれこむ怪しげなものばかりで、仲間の一人が「俺は将来結婚するかもしれぬ意中の女のためにもこんな怪しげなところに泊まる訳にはいかない」などと言い出し、もう一人の男も共感して、「それなら俺も彼と抱き合って駅のベンチで寝る」などと言い出し、あきれた私はこの春先にそんなことをして風邪でも引いたらかなわぬと暗い町中を探し回ってその頃まだあった行商人の泊まる安宿を探しあて、垢だらけの布団に三人抱き合って眠ることが出来た。

その後、寮の先輩の紹介で泊まったある会社の雲仙の寮で行き合った美人の女子大生に一人が惚れてしまい、私たちに隠れて文通しはじめ求愛したが敢えなくふられて、自殺しかけた始末だったが、それにしても途中のある区間は便所に三人身を隠し車掌の検札を逃れての無銭旅も織り混ぜて、なんとも愉快な思い出だった。

その次の夢の旅は、世の中に出たての頃、富士重工のスポンサーでスクーター四台と中型トラックでの南米の長旅だったが、当時伸びざかりの日本経済のバックアップで、無料で提供されたナイロンのスカーフやその他現地にはない製品が行く先々で大評判となり、セニョリータたちにも大もてで美人と美酒のチリを満喫して縦断し、さらにはパンパスを一日平均二百キロというハイペースで踏破したものだった。

さらにその次の思い出の旅は、親友の伊藤政男がシチズンのヨーロッパ支配人をしている頃、彼を訪ねて二人してドイツの北部からロマンティッシェ・シュトラーセを通りヒットラーの造った速度制限のないアウトバーンをフランスとの国境まで走った旅、途中のローテンブルクでは日本の学生と見間違えられ料金はすべてただなどという恩恵にあずかり、思いがけず学生気分に浸れたという寸劇まであった。

その次の私にとって忘れ難い旅は読売新聞に頼まれて出かけたベトナム戦争でのクリスマス休戦取材の旅で、私の好奇心はそれだけではとどまらず、さらに足をのばし最前のべトコンへの待ち伏せ作戦にまで同伴し、雨の中深夜に恐怖の体験をしたものだが、その折の緊張と恐怖の添え物で戦争で流行る肝炎にかかってしまい、帰国後発病し、生まれて初めて半年の静養を強いられたものだった。

そしてその間ベトナムでの体験を顧みて自分の祖国への危機感に駆られ、揚げ句にそれを克服するためにもと、政治にコミットする決心をするに至ったのだった。

あの人生の転機もまた私の得難い旅の所産と言えるに違いない。

思えば私の人生はさまざまな旅に彩られてきたと言えそうだが、振り返りその中から選べば、私の人生の中で一番甘美な旅は憧れの太平洋を初めて渡ったトランスパックレースの思い出に他なるまい。

あの思い出についてはさまざま書き記してきたが、私の人世の光背としての海を満喫させてくれたあの旅は、無数の処女体験に彩られて他の旅を超越した思い出の宝庫だった。

はるか北のアラスカの海で起こった嵐が立てた大波が赤道近くまで下っておしよせ、貿易風のつくる波とぶつかりあって突然に立てるその三角波が、安逸に過ごしているコックピットに座っていると突然かぶさってくるあの驚き。

どこから飛んできたのか船に添って何日も飛び続け、投げて与えるクラッカーを巧みにくわえて飛び去り、また姿を現す大きな軍艦鳥。

南の空に現れ、一つながら赤と緑交互に輝いてみせる不思議な星。

何日かぶりにやってきて、シャワーを期待してもろ肌脱いで待つ私たちをすかして通り過ぎるスコールが、船のまわりに作り出す数多くの虹の森の景観。

そして潮風に煙るモロカイの海峡に満月の夜におぼろげにかかる、夜空にそびえる巨きな虹の門。

私はいつか何かの作品で禅問答の考案に「昼にかかる虹の色は七つだが、しからば夜の空にかかる虹の色は何色か」などと書いたことがあったが、太平洋の旅は期せずしてそれを証してくれたものだった。

旅はいい。旅は流れる時の流れに乗せて男が男になるために、そして女が女になるために、思いがけぬいろいろなものを備えて与えてくれるものだ。

第十四回に続く
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石原慎太郎
石原慎太郎
Shintaro Ishihara 1932年神戸市生まれ。一橋大学卒業。55年、大学在学中に執筆した「太陽の季節」により第一回文學界新人賞を、翌年芥川賞を受賞。ミリオンセラーとなった『弟』や2016年の年間ベストセラー総合第一位に輝いた『天才』、『法華経を生きる』『老いてこそ人生』『子供あっての親-息子と私たち-』など著書多数。
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