【小橋賢児まとめ】ぼくが芸能界から退き、ULTRA JAPANを手掛けるようになった理由

いまや特定の領域に閉じこもってばかりいては、先が拓けない時代だ。 ジャンルを軽やかに跳び越えていく者だけが、真に革新的なことを為し得る。小橋賢児という名に聞き覚えのある人はかなりいるだろうが、彼のどの顔を知っているかは人によりバラバラではないか。 俳優、映画監督、イベントプロデュース……。時期によって注目される側面が次々と変わっていく、まさにマルチな活動ぶり。 その類稀な才能はいま、クリエイティブな「場」の創出に向けられている。その最大の場が、 クリエイティブディレクター(現在はクリエイティブアドバイザー)として成長させてきた、世界最大級のダンスミュージッックフェスティバル「ULTRA JAPAN」(主催:Avex)だ。リアルな体験の場を生み出すことに賭ける、彼の思いと原動力はどこにあるのか。小橋賢児が自身の半生を語る


第1回 俳優から転身! なぜULTRA JAPANを手掛けたのか?

社会の大半が「have to」ばかりでできていて、「want to」の夢を抱くことすらあきらめてしまっているように見えた。それは、かつて自分も似た時期があったからよくわかる。僕は10代のころから俳優として仕事をしていた。売れっ子になった時期もあったけど、そうなるとどんどん身動きがとれなくなっていった。それで、27歳のときに休業してしまった。僕は、自分の中に「want to」を取り戻したかったのだ。


第2回 芸能界デビューのきっかけは8歳の時に送った1枚のハガキ

いつも親がいなくて、当時は携帯電話もメールもない。誰かに聞いたり許可をもらったりする前に、なんでも自分の思ったことを実行するクセがついた。公園の裏山に基地を作ったり、近所の交番の警察官と仲良くなったり、自分が宇宙飛行士になって乗るためのロケットを作ろうとして、工場の周りでネジを大量に集めたり……。いつも自分で工夫を凝らして遊んでいた。


第3回 1990年代の芸能界は独特の華やかな魔力があった

当時の芸能界には、独特の華やかな魔力があって、すごく魅力的だったことも事実だ。ときは1990年代。それ以前のバブル経済全盛期は、人の夢は現実の社会で具現化されていた。そんなタイミングで芸能界に入っていったから、業界は華やかなことこのうえなく僕の目に映った。身を浸していると、純粋に気分が上がる。とりあえず楽しいのはまちがいない。


第4回 僕が27歳で芸能界から退いた理由

いまの地位に必死にしがみついていたら、それなりのポジションと生活は維持できるかもしれないけれど、それはどうなんだろう。自分の気持ちにどこかウソをつきながら居場所をなんとかキープして、それがはたして自分の人生なんだろうか。疑問は募った。


第5回 世界中を旅して回るが、帰国後はひきこもりに

開いた心を持っていれば、自分にはいろんなことができそうだ。自分は可能性に満ちている。そんな気分で日本に戻ると、当然ながらそこは何も変わっていない。それはそうだ、僕が海外で非日常に足を突っ込んでいるあいだも、日本では日常が続いているのだから。


第6回 10年後、20年後に自分が何をしているかは想像がつかない

僕はいつだってその瞬間ごと、目の前にあるものに夢中になり熱狂しながら、一歩ずつ進んできた。あゆみを止めなければ、そのうちにワクワクするような未来が見えてくるから、またそこへ向けて着実に歩いていく。そんなことの繰り返しをしてきたし、これからもそうしていくつもりだ。


小橋賢児
小橋賢児
1979年東京生まれ。’88年に俳優としてデビュー、NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』など数多くの人気ドラマに出演。2007年に芸能活動を休止し、世界中を旅して回る。現在はULTRA JAPANや未来型花火エンタテインメントSTAR ISLANDをはじめ、話題のイベントをプロデュース。マルチクリエイターとして活躍する。
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