デーブ・スペクター 新聞20紙、テレビは4番組チェック 日本のテレビ界で28年、休まず眠らず続ける仕事術。

1980年代、日本では外国人タレントブームがあった。その後も唯一、露出度が変わらないのがタレント、テレビプロデューサー、放送作家、コメンテーターとして活躍するデーブ・スペクターだ。なぜ、彼だけがテレビで生き残り、進化し続けるのか? 理由は、短時間睡眠、仕事の同時進行、極端なせっかちにあった。

 東京千代田区にあるオフィスを訪ねると、エントランスで、大きなポスターのデーブ・スペクターの写真が迎えてくれた。

 顔の横には、寒いギャグでいつもすべるデーブを逆手に取った自虐的キャッチコピー。この「としまえん」スケートリンク初滑りの広告は、東京各所で大いに受けた。
 会議室に入ると、等身大のバラク・オバマのパネルや等身大のE.T.のフィギュアがあり、まるでアミューズメントルームのよう。また、壁にはテレビモニターが縦5列・横4列に20台並び、世界各国のテレビ番組を映している。タレント、テレビプロデューサー、放送作家、コメンテーター、著作家、元アカデミー賞投票資格者……など、さまざまな肩書を持つデーブだからこそのオフィスといえる。
 そんなマルチな才能を発揮し続けるデーブが、東日本大震災および福島第1原発事故で危機的状況のなか、今度はツイッターで注目されている。

ツイッターのつぶやきは“寸止め”を心がける

 震災前、100%ギャグでツイートをしていただけに、デーブは悩んだ。しかし、自粛するのではなく、悲しい思いをしている人たちをほんのわずかでも励ましたいという一心で、次から次へと慎重につぶやいたのだ。
「やっと親戚や家族とつながった携帯→『愛』フォン」
「避難が『自己責任』でというなら『事故責任』もきちんとして下さい」
 不謹慎スレスレのツイートに、当初は賛否両論。「誰か早くデーブを黙らせろ!」という書き込みもあった。ところが、傷つき渇いた心に潤いをもたらすツイートとして、すぐに共感一色に。震災後10日でフォロワーが12万人に急増。そして7月20日現在、29万人に近づいた。
「思いもよらないことでした。1000人もフォローしてくれる日もあって、その勢いが止まらないんですよ。日本のテレビに出演し始めて28年、僕はすべってばかりでした。言い換えると、すべるのが僕でした。番組で僕が話し始めるとCMになる。合コンでも解散するタイミングを作っちゃう。ところが、今回に限っては本当に受けているらしい。初めて空気を読めた気がしています。フォロワーには、坂本龍一さんや孫正義さんのような直接面識のない大物もいて、びっくりしました」
 ツイッターでつぶやく時に心がけているのは“寸止め”だ。
「不謹慎になる手前のギャグをつぶやくのがポイント。今は温かいと言ってもらっているけれど、さじ加減を間違えると、大批判を浴びると思っています」
 ツイッターは仕事ではないところがよかったという。
「プレッシャーはゼロですから。力が抜けているほうが受けるのかもしれないね」
 さらに、フォロワーの反応が早いツールであることも、性格的に向いていた。
「僕、ものすごくせっかちでね。iPodで音楽を聴いても、10秒で次の曲にスキップしちゃう。カップラーメンは3分待てない。サトウのごはんも電子レンジで2分待てない。少し硬いうちに食べちゃいます。フォローが早いツイッターはせっかち者に向いているツールなんですよ」
 ツイッター上で反響を巻き起こしたデーブのギャグは『いつも心にクールギャグを』というタイトルで早速、書籍化される。

『おそ松くん』を読んで身に付けた日本語

 デーブ・スペクターというマルチタレントは、1976年に日本を訪れ、'80年代にテレビ画面に登場して以来、幅広く活動し続けている。
 生まれは、アメリカのイリノイ州、シカゴ。くりくりとした瞳で、幼い頃から子役としてテレビで活躍した。
 日本に興味を持ったのは小学校5年生。日本人少年ワタル君が転校してきたのがきっかけ。
「郵便局はどこですか?」
 ある日デーブは、密かに覚え、発音を練習していた日本語でワタル君に質問。驚愕させる。子供の頃すでにエンターテイナーだったのだ。ワタル君の感激を目の当たりにし、デーブの日本語熱に拍車がかかる。ワタル君の持つ『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』に夢中になった。当時連載されていたのは『おそ松くん』『オバケのQ太郎』『あしたのジョー』など。いい時代の日本の漫画と出合えた。
「日本の漫画はアメリカのコミックとはテイストがまったく違うから、すごく面白かった。それに、吹き出し文字の漢字にはふりがなが振ってあって、日本語を覚えるには最適でした」
 ますます日本語に関心を深め、一日30単語を覚えることを自分に課す。やがて興味は漫画から小説へ。三島由紀夫、井上靖、北杜夫などの作品を読む。そして中学生の時、「三島由紀夫の生涯と自殺」をテーマに、シカゴの日系人主催の日本語弁論大会で2年連続優勝。アメリカ人の中学生が優勝するのは快挙だ。すでにネイティヴの日本人よりも優れた日本語だったのだ。

Dave Spector Japan
日本を愛し続けたデーブの軌跡

幼い頃はアメリカのCMに出演し、名子役として人気を博す。中でも有名なのが、あのケロッグのコーンフレークのCM。
学生時代はモデル活動も。プロフィールには、英語と日本語でのナレーションができることも記されていた。学生服、ハチマキに着物といういで立ちなど、青春時代からいかに日本に心酔していたかが伝わってくる。
ABCテレビのプロデューサー時代。膨大な新聞や録画テープが、仕事スタイルを物語る。
“でたがりの構成作家”と称し、構成作家でありながら、番組にも自ら出演して盛り下げる!?
『笑っていいとも!』にて、「デーブ・雄三・スペクター」名でデビュー。派手な色の衣装や、巧みな話術と寒いギャグで、一躍お茶の間の人気者に。

原色のジャケットを着て、目立つことに徹した'80年代

 デーブ・スペクターの名前が日本に定着したのは、'84年の『笑っていいとも!』のレギュラー出演だろう。カナダ生まれのアメリカ人のケント・デリカット、ギニア人のオスマン・サンコンとともに“変なガイジン”として注目を浴びた。
 この時期、デーブの“テレビ人”としてのプライドがめきめきと育っていった。
「僕はテレビで子役から仕事をしてきました。いわば、本業です。でも、他のふたりは当時ド素人ですよ。たまたま日本にいて喋り方が面白かっただけだと思った。負けるわけないし、絶対に負けたくなかった。特にケント・デリカットはすごくコンサバティヴなユタ州の大学を出ていてね。ジョークが通じない土地。テレビのバラエティ番組の場で、負けるわけにはいかない。意地ですよ」
 名前は、最初「デーブ・雄三・スペクター」にした。ミドルネームに、当時ファンだった加山雄三のファーストネームを加えたのだ。そして、番組のスタッフは自分たちに何を求めているのか? どんな服装が目立つのか? 常に研究を重ねた。

ネクタイにこだわりあり/ネクタイはいつもドゥシャンプ。数百本持つ。

「服装はいつも目立つ原色にしました。'80年代はDCブランド全盛期。僕はK-FACTORYのジャケットを着てね。髪はアメリカ人らしい明るい金に染めた。僕、日本語はすでに話せたから、当時よくハーフに間違えられたんですよ。仕事では不利です」
 トークも徹底的に磨いた。
「喋り方はもちろんですけれど、もっと大切なのは、あらかじめ共演者をよく知っておくことです。翌日に番組で会う人の経歴は徹底的に調べます。新聞や雑誌の記事はもちろん、今は2ちゃんねるまでチェックする。そのうえで、相手に失礼がないように話します」
 一方、視聴者に好かれすぎないことも心がけた。
「視聴者全員に好かれようとするな。半数には嫌われていなくては、自分はつまらないと思え」
 故山城新伍に言われた言葉だ。
「山城さんに言われてテレビを見ると、確かに長続きする人は、誰にでも受けているわけではないんです。あの言葉は参考になった。ありがたかったですね」
 '80年代に登場した外国人タレントはたくさんいた。しかし、今そのほとんどはテレビで姿を見ない。露出の頻度が変わらないのはデーブだけだ。そこにはやはり理由があったのだ。

まるでテレビスタジオのような個人事務所/会議室の20台のテレビは世界中の番組を映す。時計の針は現地時間をさしている。

 デーブはタレントとしてだけではなく、構成作家として『ひらけ! ポンキッキ』や『夜はタマたマ男だけ!!』などを手がけた。『料理の鉄人』や『風雲たけし城』のアメリカでのリメイクにも携わった。また、橋下徹大阪府知事が、かつてテレビキー局でレギュラー出演していたのも、デーブの斡旋だった。
 ここまで日本に、そして日本のテレビに執着するアメリカ人はいない。大震災直後の原発事故のさなか、帰国を勧めるアメリカ人たちにも「僕は絶対に日本から逃げない!」と宣言した。
「今、日本を離れたら、僕は卑怯者ですよ。まあ、それを言ったら、本当は行く場所がないんだろ、とテリー伊藤に突っ込まれたけれどね」

毎日徹底的に準備をする。そしてすべて出し切る

 デーブはなぜ、これほどまでに日本や日本のテレビ界を大切にするのか、そして定着したのか、本人はどう解釈しているのだろう。
「これはツイッターにも共通するけれど、日本のテレビは、アメリカと比べると瞬間風速が大切。どんどん消費していく。そこがせっかちな僕には合っているんだと思っています」
 番組そのものの完成度に関しては、日本よりもアメリカのテレビのほうが高いという。

日本人顔負けの自筆原稿/中学生の時、シカゴの日系人主催の弁論大会で優勝した時の自筆の原稿。達筆なのがわかる。テーマは「三島由紀夫の生涯と自殺」。

「そりゃあ、そうですよ。アメリカは後で海外に売ることまで考えて作っていますから。日本の番組は、その日の視聴率が勝負でしょ? でもその代わり即興性があって、遊び心があって、勢いがある。だから生放送が圧倒的に多い。自由度が高いから、すごく楽しいですよ。僕は終わってしまったことはほとんど考えない。いつも、これから起こることに気持ちを集中させます。そして、蓄えたものは毎回全部出し切る。その体質が日本のテレビ制作に合うんです」
 だから、常にその日の番組の仕込みに余念がない。
「新聞は毎日20紙に目を通す。一般紙やスポーツ紙はもちろん、海外からも空輸しています。最初にチェックするのは読者の投書欄です。テレビ番組の感想や批判が掲載されているコーナー。東京新聞は特に掲載本数が多くてね。シャレのわからない視聴者の投稿をたくさん掲載しています。NHKでやった演歌の新人歌手を審査する番組で『顔ぶれに疑問あり』とか。疑問のある審査員の名前は伏せてあったけれど、僕のことですよ。他の審査員はみんなプロの作詞家、作曲家でしたから。でも、そういう批判記事は参考になるから、切り抜いてスクラップします。新聞と同じ理由で、週刊誌もひととおり読んでいますよ」
 自宅では新聞を読みながら、同時にテレビ画面もチェック。音を消して4番組を映している。

「こうして新聞、雑誌、テレビ、ネットをチェックして、自分だけのネタ帳をつくる。楽しいですよ。仕事とは思えないほど。だから、眠る時間がもったいない。睡眠時間はずっと3~4時間です。でも、最近はそれでは脳がもたなくなってきましてね。瞬発力が鈍る。喉まで出かかったコメントを思い出せない。仕方なく、今は5~6時間睡眠を目指しています。まとめて眠るのは効率が悪いので、仕事の合間に細切れで仮眠をとり、一日トータルで5~6時間です」
 オフは一年に数日だけ。その時ですら、家族旅行先から休んだはずの生番組のスタジオに連絡して声で出演してしまう。
「僕はもう、仕事をしなくてはいられない身体なんですよ」

Dave Spectorアメリカのイリノイ州シカゴ出身。子役を経て来日。'84年『笑っていいとも!』にレギュラー出演し知名度が上がる。「案ずるより横山やすし」など寒いギャグを連発しテレビ界に独自の路線を築く。タレントだけでなく、放送プロデューサー、放送作家などとしても活躍。時事ネタから芸能ネタまで豊富な知識で、2009年にはオリコン「好きなコメンテーター」部門で1位となる。ツイッターアカウントは@dave_spector。

Text=神舘和典 Photograph=前田 晃

*本記事の内容は11年5月1日取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい