旅館vsホテル 対極を愉しむ 出井伸之vol 19


日本の温泉旅館は戦略を誤った


 パリでお気に入りのホテルは、と問われれば、パークハイアットと答える。ニューヨークならフォーシーズンズだ。日本でも、こぢんまりとしたホテルを好む。正月はシャングリ・ラ ホテル東京で過ごした。
 どうしてこぢんまりしたホテルなのか。そこには日本的な旅館文化への郷愁がある気がする。そういうものを知らず知らずに求めている自分がいるのだ。これも日本人ゆえの日本文化への親しみ、といえるかもしれない。
 実際、隠れ家的な味わいが楽しめるのが、温泉地の高級旅館である。これは、西洋のホテル文化にはなかなかない。こぢんまりしていてプライバシーが守られる。一流の料理人の手の込んだ料理をゆったり味わうことができる。かつて作家たちが、長期滞在して小説を書いていたというのもうなずける。


 ところが、日本の多くの旅館は戦略を誤ってしまったのではないか。バブル以降、日本の旅館はむしろこのこぢんまりしたよさから離れ、規模を大きくして、「規格量産型」のサービスを提供するようになった。気の利いた料理も出せなくなっていく。これでは、誰にとってもマイナスである。日本旅館とは本来何だったのか。アイデンティティクライシスに陥ってしまったとしか、僕には思えない。
 実際、こぢんまりしたよさを残しながら、事業を成長させていく方法があったのではないか。例えば、ひとつひとつの旅館の規模はそのままに、それを多エリアでそれぞれの地域の個性も生かしながら展開すること。旅館のサイズは変えず、事業のスケールを変えるのだ。そういうビジネスモデルであれば、ありえた。実際に今それを目指しているのが、星野リゾートの星野佳路さんだろう。

需要のロジックか供給のロジックか

代金の一部が寄付になるというシャングリ・ラ ホテルで出されたスパークリングワイン「WISH for Japan」。理念にも賛同したがデザインにも感心した。白い陶器製で、日の丸のような赤の丸いアイコンが浮かぶ意匠は、ボトルとしても新鮮。

そもそも日本の高級旅館にはいくつかの大きな問題点があったと僕は思う。例えば、部屋で食事するかレストランで食べるかが選べない。また、寝具を敷いてもらわないといけない。食事はさておき、寝具を敷いてもらう時には、部屋を出ないといけない気がしてしまう。これは、実のところ宿泊客には興ざめだ。それこそカップルで来た人たちは、プライベートなひと時を期待しているのに、部屋から追い出されてしまうのである。
 これを聞いて僕に思い浮かんだのが、ひとつの対極の言葉だった。需要と供給である。思えば、どうして僕が旅館に行かずにホテルに行くのか。それは、基本的に放っておいてほしいからだ。しかし、やってほしいことは頼める環境にあるのがホテル。僕の“需要”には確実に応じてくれるのである。
 一方の旅館は、食事にしても寝具にしても、旅館側の論理でサービスが構築されているのだ。実際、ホテルに比べてチェックインの時間は遅くチェックアウトは早すぎる。これも供給側の都合で組み立てられてはいないか。もっといえば、日本のサービス産業全体にこの傾向があると思う。顧客の需要よりも、自分たち供給の論理で物事が動く。だからアイデンティティを忘れた戦略に走ってしまったりするのだと思う。
 そしてもうひとつ、対極の言葉が浮かんだ。オープンとクローズだ。ホテルには連泊する僕だが、実は旅館に連泊したいとは思わない。ほとんど同じ料理が出てくることもそうだが、することがないからである。日本の旅館は顧客を閉じ込める。だから、街も寂れてしまう。顧客にとってのエンタテインメント性が薄くなるのだ。いいレストランも、娯楽も育たなくなる。
 一方、西洋のホテル文化はオープンである。外で食事をしたり、娯楽を楽しんだりすることが前提だ。そして面白いのは、オープンとはいえ、実は誰でも歓迎しているわけでもないのである。パリのパークハイアットも、高く評価する人もいる一方で、好きではないと語る人もいる。それだけ強烈な個性があるわけだ。コンセプトにしても顧客層にしても、中途半端ではないのである。
 実のところ、僕のように放っておいてほしい人もいるが、たっぷり細やかに面倒を見てほしい人もいる。クローズにのんびりしたい人だっている。要はどこまで自分たちの強みを認識し、それを個性に落とし込んでいけるか、だろう。日本の旅館は日本の大事な文化のひとつ。後世に残さなければいけない。価値をきっちり整理し、強烈な個性に落とし込めれば、それは可能だと僕は思っている。


Text=上阪 徹 Photograph=OGATA
*本記事の内容は12年2月取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい