ミッキーマウスvsキティ 対極を愉しむ 出井伸之vol 10


世界に支持されるがことごとく違う両者

 孫や娘の世代が心惹かれるのはよくわかる。だが、僕の年代の女性からも支持されるキャラクターとは、いったい何なのか。不思議でならないのがミッキーマウスだ。出自やら何やらを語るのは、ファンの間では野暮な話以外の何物でもない。だから僕も語るつもりはないのだが、間違いなく言えることはある。それは、ミッキーマウスは象徴だということだ。
 オールドアメリカンの象徴。勧善懲悪、健康的、ファミリーオリエンテッド。活発で饒舌で、たくさんの仲間に囲まれた人気者。そして、ディズニーブランドの象徴、つまりアメリカンコマーシャリズムの象徴。ミッキーマウスは、100年以上に及ぶグローバル化の流れのなかで、その姿を確実に変えてきた。モノクロからカラーへ。卵形の目から自然な目へ。細い顔から丸い顔へ。これは僕の持論だが、グローバルになるとものは丸くなるのだ。その意味では、変化する世界の象徴とも言える。


 一方、日本にも世界の人を虜にしているキャラクターが存在する。それがキティだ。面白いのは、同じ愛されるキャラクターでありながら、ことごとくミッキーマウスとは違う、ということである。
 何かの象徴、というものがほとんど思い浮かばない。日本の象徴というわけでもないし、所属するサンリオの象徴というわけでもない。しかも、その姿は生まれて30年以上、ほとんど変わっていない。ミッキーマウスが映画のヒーローだったのに対し、キティの映画は、ほとんどの人の記憶にはない。

日本人が目指すべきはキティなのか

その容姿とて、いつもニコニコと動き回るミッキーマウスとは大きく異なる。無口な印象は、何しろ口がないのだから当たり前だ。手足もずんぐりして、いかにも不器用である。それなのに、というより、それだからこそ、キティは人々から愛されている。あの姿だからこそ人々は持ち歩くものにキティをぶら下げたりするのだ。

密かなブームとなっているユナイテッドアローズのサルの携帯ストラップはいろいろな姿形がある。サングラスが取れてしまった僕のサルは、実は孫からのプレゼント。この“エビ”をもらったお返しの“タイ”は高くついた(笑)。


 そんなキティに対して、敢えて象徴を求めるとすれば、日本が世界に誇るコンセプト“kawaii”の象徴か。この“kawaii”というコンセプトの意味は、極めて曖昧模糊としている。範疇が広く、なんだかよくわからない。いろんな美学を内包している。そしてキティはそれを、さらに後押しする。口がないキティは、まさに「沈黙は金」を体現しているのだ。
 ミッキーマウスを対極として据えるなら、そもそもキティのベースとなっているネコは、本来、悪役のキャラクターである。アニメなどさまざまなコンテンツを見ても、ネコは狡猾さの象徴として捉えられていたりする。だが、キティはそうはならない。なぜなのか。しかも日本に対して厳しい見方の国でも、キティはメイドインジャパンのキャラクターであるにもかかわらず、熱狂的な支持を得ている。
 ここから日本が学べることがある。キティこそ日本人が目指すべき道だ、ということだ。日本人は意識してキティになるべきなのだ。なぜ、キティはネコでありながら狡猾の象徴にならないのか。それは、口がないから、これみよがしに主張しないからである。なぜ、世界の人は自然に受け入れるのか。それは“kawaii”からである。流暢な英語が話せなくても、凹凸のある顔でなくても、行動がスマートでなくてもいいのだ。もっと普通で、自然体で、人間らしく、愛らしくあればいいのである。
 実は思い当たる経験が僕にもあった。僕は、国際会議の場やディベートの場が大好きな珍しい日本人なのだが、ある時、移動であまりに疲労困憊し、電話会議中にウトウトしてしまった。予想外だったのは、その後の周りの反応である。ミスター出井も「かわいい」ところがあるじゃないか、と言われたのだ。その後、僕にとってその会議は極めて心地のいい場所になった。
 日本人には、キティのような平和キャラが合っている。無理してアメリカンヒーローになる必要はない。だが、グローバル化が進む中では、さすがにそれだけでは済まなくなっているのも事実だ。
 そこで僕がお薦めしたいのは、キティをかぶったミッキーマウスになることだ。中身はミッキーマウスを目指す。しかし、外からはキティに見える。これぞ日本が目指す最強の道である。キティな経営者も、ミッキーマウスな政治家も、ぜひ参考にしてほしい。そんな対極である。


Text=上阪 徹 Photograph=OGATA
*本記事の内容は11年5月取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい