【阿部勇樹】ジェフ千葉から浦和レッズに移籍した理由

阿部勇樹は輝かしい経歴の持ち主だが、自らは「僕は特別なものを持った選手じゃないから」と語る。だからこそ、「指揮官やチームメイトをはじめとした人々との出会いが貴重だった」と。誰と出会ったかということ以上に、その出会いにより、何を学び、どのような糧を得られたのか? それがキャリアを左右する。【阿部勇樹 〜一期一会、僕を形作った人たち~⑬】。


僕が一番成長できる場所

2007年1月26日。埼玉スタジアムで僕は、浦和レッズ加入会見に出席した。

2006シーズン、初めてリーグ優勝を果たし、天皇杯でも優勝した浦和。その一員に名を連ねると決断するまでにはいろいろな想いを巡らせたけれど、決断してからはもう迷いも不安も一切なかった。この新しいチャレンジが、必ず自分を成長させると確信していた。

子ども時代から育ててもらったジェフ千葉。長年過ごした場所への愛着が消えたから移籍を決めたわけではもちろんない。

2003年、監督に就任したイビチャ・オシムさん。さまざまなことを要求する厳しいトレーニングのなかで、成長し、変化していることを感じていた。そして、チーム自体が変わっていくのも体感していた。リーグ戦で上位争いをし、2005年、2006年とナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)での連覇も果たしている。

このまま、オシムさんのもとで、もっともっと、自分が成長していけるという自信があったし、それが楽しみだった。

しかし、2006年夏、ワールドカップドイツ大会終了後に、オシムさんが日本代表監督に就任することが決まった。

監督がジェフを離れたことが残念だった。もちろん代表へ行けばオシムさんのもとでサッカーはできる。しかし、ぽっかりと穴が開いたような気持ちを埋めることはできなかった。同時に、長年在籍しているジェフに居続けることが自分にとって、どういう影響を及ぼすんだろうかという不安が芽生えてきた。

ジェフがオシムさんのもとで、培ったサッカーを磨き、タイトルを目指すというチャレンジもある。ナビスコカップで3連覇という目標を掲げることもできるだろう。けれど、それでは、自分は成長できないんじゃないかと思った。

新しい環境で、新しいプレッシャーを担い、厳しい競争のなかで戦う。そういうチャレンジをすることが、僕が成長するために必要なんじゃないかと考えるようになった。

だから、移籍しようと思った。

いくつかのクラブから話をもらった。

そのなかで、浦和を選んだ理由は明確だった。僕が一番成長できる場所だと思ったからだ。

ここ数年、多くの優秀な選手を獲得し、前シーズン、リーグ優勝したばかりの浦和。そんな勢いのあるチームへの加入をためらう選手もいるかもしれない。けれど、僕は、だからこそ、浦和でゼロからチャレンジしたいと決めた。

埼玉スタジアム。レッズのサポーターがぎっしりと埋まるそのスタジアムは、アウェイの選手にとっても、高いモチベーションを与えてくれる場所だ。

「浦和のサポーターを黙らせたい」

そんなことを思い、いつも以上に力を発揮できるスタジアムでもある。

浦和の選手たちは、毎試合、そういう相手と闘わなければならない。同時にたくさんのサポーターの期待を担い、勝利でその応援に応えなければらない。毎試合、どんな試合であっても、そういう責任とプレッシャーを背負って戦うのは、純粋にすごいなと思った。

アテネ五輪のチームメイトでもあった(鈴木)啓太や(田中)達也、(田中マルクス)闘莉王が、そんな浦和で成長しているのを知っていたから、自分もそういう場所で戦いたいと。

2007年の新加入会見のひな壇には、僕と監督しか立っていかなった(阿部勇樹が唯一の補強選手だった)。

そして、隣に立ったのが、このシーズン監督に就任したホルガー・オジェックさんだ。加入前、「いっしょにやろう」とオジェックさんから、手紙をもらった。

まだ会ったこともない監督からのメッセージは非常にありがたかったけれど、ゼロからスタートするという決意に変わりはなかった。

Yuki Abe
1981年千葉県生まれ。浦和レッズ所属。ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出される。'98年、ジェフユナイテッド市原にて、16歳と333日という当時のJ1の最年少記録を打ちたて、Jリーグデビューを飾る。2007年、浦和レッズに移籍。2010年W杯終了後、イングランドのレスター・シティに移籍。'12年浦和に復帰。国際Aマッチ53試合、3得点。 


Text=寺野典子 Photograph=杉田裕一